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兵庫 新川遊廓
明治十年八月兵庫の内、娼妓営業地域が福原町、西柳原町、東柳原町、北逆瀬川町、神明町、佐比江町に指定されました。
そして明治十三年四月上旬、嘉納治郎右衛門は土地繁盛の目的を以って新川遊廓設置の出願をし、許可を得て、明治十四年福原及び新川両遊廓の娼妓を一等と定めその他を二等娼妓としました。
新川遊廓誕生には、芸娼妓が混在していた柳原の花街が、遊女は遊女、芸妓は芸妓と区別し、芸妓のみ柳原に残し、遊女のみ新川に移したという裏事情もありました。
明治十五年『豪商神兵湊の魁』に新川開廓当初の大店として今在家町、貸席業として三邑楼と宮本楼が載ります。
さて明治四十二年に前書きが書かれた『花柳界 美人の評判記 神戸市内 西ノ宮 明石』に、兵庫新川遊廓の沿革概要があり、新川遊廓は薬仙寺の前の溝を埋め立て開店したが、明治二十年の頃、新出在家三丁目と南逆瀬川町(勢春楼所在地)に漸次移転した、と書いてあります。
移転前の新川遊廓の場所はわかりません。当時の薬仙寺の敷地は両地図ともずいぶん大きく、当時の門の位置も定かでないので、前の溝がどこか特定できませんが、今在家町のどこかのはずで、移転後のすぐ近くと考えられます。
明治十九年、柴田正編集による地図を見ると、遊所として兵庫に福原町、西柳原町、東柳原町、北瀬川町、神明町、佐比江町が無くなり今出在家町の西に新遊廓地と書かれています。(地図一)
この新遊廓地が移転後の新川遊廓です。明治二十二年の地図(地図二)には正にその場所に新川遊廓が載ります。
ただ他に移転したという記述は、いろんな文献を当たったものの見当たらず、明治二十年あたりの神戸又新日報を見ましたものの遊廓移転の記事を見つけることは出来ませんでした。
さらに新出在家町(新在家町はあります)の存在自体どこを探しても出てきません。これは今出在家町の誤記と考えれば辻褄は合います。
現在の南逆瀬川町1,2丁目は今出在家町より随分離れており新川遊廓とは考えられません。
『町名変更一覧表』に、昭和四十八年に今在家3丁目の全てと南逆瀬3丁目の一部が今出在家町3丁目に変更とありますので、私は現在の今在家3丁目辺りが移転後の新川遊廓の場所と考えています。つまり薬仙寺から画像の今出在家小公園を含み、海岸線線辺りまでの区域と思います。県立工業高校の敷地もある部分含まれるはずです。(2月1日訂正)
とにかく兵庫の町名変更は、今出在家町は条例に1~6と書かれているが4~6丁目は不明・・・などと書かれていたり、変更に次ぐ変更があり尋常沙汰ではありません。
『公娼と私娼』内務省警保局が昭和六年二月に出した資料でも新川遊廓は今在家町と南逆瀬川町になっております。貸座敷二十二軒、娼妓は二百九十四人居ました。
さて、新川遊廓の様子は、
明治二十二年三月に、宮本楼、繁栄楼、新川楼、金栄楼、若山楼、柳原楼、小西楼、豊栄楼、藤原楼そして朝日楼の妓楼十軒に妓数六十三人がいたと記します。
明治二十二年七月二十八日の『神戸又新日報』に、新川遊廓の新川楼と金栄楼では、娼妓が張り店で椅子に腰掛けている、深夜一時、二時まで畳では夏は辛かろう、しかし椅子に腰掛けているので脚気に成らないか心配である・・・という読者からの要らぬお世話の投書を紹介しています。
深夜まで格子の中で客に愛想する娼妓さんの遣る瀬無い表情が目に浮かびます。
明治三十年『神戸みやげ』岡本郎吉著によると「神戸に遊廓二個所あり、一を福原、一を新川と云う、去れど新川は地も西南に僻し、且つ貸席業者も僅々十数軒に過ぎずして遊客の如き多くは水夫等にて別に記するまでのこともなければ遊廓として専ら福原のことのみ挙ぐべし」
と随分下に見られています。
明治四十二年の新川遊廓には勢音楼、第二支店、第四支店、第五支店、いろは楼(第二支店、第三支店)、繁栄楼、小西楼、宮本楼、新川楼、金栄楼、松栄楼、吉野楼、和田川楼、戎楼、松鶴楼、可祝楼、大黒楼があり114人の娼妓がいました。出身は伊勢が最も多く、次いで紀州の女が目立ちました。
昭和五年刊『全国遊廓案内』では貸座敷二十二軒、娼妓は約二百人、店は写真式、娼妓は居稼ぎ、廻しはとらない等と短く纏められていました。
新川遊廓の戦後の実態は何も出てきません。『神戸空襲体験記<総集編>』に昭和二十年三月十七日に新川遊廓辺りも空襲にあっておりますので、此の日に壊滅したのかもしれません。
『兵庫県警察史 明治・大正編』『神戸開港三十年史、下』『福原遊廓沿革誌』