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姫路 梅ヶ枝遊廓
姫路の古二階町の東にあった茶町はさらに前は高尾と呼ばれており、天正四年(1576)『播磨府中めぐり』に「宿の本村より東南一丁半高尾の宿所、四十斗の農家、国府氏が智(知)所、(中略)高尾に夜ほつ多し」とあります。(平凡社『兵庫県の地名2』)
夜発(やほち、やほつ)とは立君、辻君、夜鷹、総嫁などと同じく路傍にたって客をひく下等私娼の名称になります。
しかしこれは私娼の集まりで遊廓とは言えないでしょう。
姫路の野里の梅ヶ枝にいつ遊廓ができたか答えてくれる資料は、姫路市史等さがしたものの今の所分かりません。
1959年の新聞を見ても百年前とか百数十年前とか、ざっくりした数字で出典とかも示されていません。
幸いなことに『諸国遊所競』に播州姫路が、それもかなり上位、上から二段目に出ていたので天保時代(1831~1845)以前には存在したことになります。
『兵庫県警察史 明治・大正編』に明治十年、播磨国、姫路に芸舞妓の許可地域が定められ、明治十三年に野里村に芸妓9名、舞妓2名が記されています。
さらに『兵庫県統計書』に明治十二年、梅ヶ坪(町名は後日梅ヶ坪から梅ヶ枝に変りました)に貸座敷17軒娼妓105人がおりこれが明治21年には貸座敷11軒、娼妓66人になっています。
昭和5年『全国遊廓案内』によると姫路市梅ヶ枝遊廓には貸座敷11軒、娼妓96人、店は写真店で娼妓は居稼ぎ制、廻しはとらず、芸妓ももう居ませんでした。
昭和20年6月に戦災で消失したものの、戦後米軍の進駐とともに復活し、業者は自衛隊の駐屯や競馬場の開設を見越して再建に力を入れたので、一時は戦前を遙に凌ぐ盛況になりました。
公娼制度廃止時(昭和21.1現在)姫路には貸座敷10軒に娼妓数73人がおりました。
昭和32年12月31日現在、兵庫県警調べによると16軒の業者に110人の従業婦がいました。
そして昭和33年4月に売防法完全施行で廃業、15軒の業者の内2軒がお座敷サロンとスタンドになったほか13軒はそっくり団体旅館に様変わり、入り口には観光旅館街と書かれたゲートが建てられました。
残りの一軒は・・・資金ぐりの苦労で各業者とも苦心さんたん、経営者が高利の借金に苦しめられ食物も喉を通らない奇病でお亡くなりになった様です。
そして貸席事務所を中心に三百坪の土地を買い五百人収容、鉄筋三階建ての「野里梅ヶ枝温泉」を建て、一大娯楽センターにする計画が持ちあがり、接客婦三十人を従業員にあて、残りを転業した旅館の仲居や女中にするというものでした。
昭和34年3月23日の神戸新聞をみると開業して一年弱で団体客を中心に延4,849人の客を獲得しました。
北山梅ヶ枝観光旅館組合長は「いまから思えばよくまあここまで来たと思います。発足当時はつらいことばかりで二、三ヶ月の間は客が“女を出せ”」と言ってゴネ、敷布団に茶をかけたり怒鳴り散らしたり、また夜中に酔って表戸を叩き“酒を飲ませろ、女を世話しろ”という客もありました。~略」
多分当時、日本全国の転業旅館で見られた光景でしょう。
そして今、営業されている旅館は見当たりません。旅館は立地が命、梅ヶ枝は白鷺城からも、姫路駅からも、繁華街からも随分離れた場所にあります。
多分計画として、団体受け入れとして大浴場と宴会場、調理部門をを一大娯楽センターに担わす予定であったと想像されるものの実施された様子はうかがえません。
その他バスの駐車場も必要なので、当初物珍しさで需要があったとしてもなかなか続ける事は難しかったでしょう。
玄関