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by gionchoubu
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明石の花街
明治十三年(芸妓・舞妓)の許可地域制限撤廃直前には大蔵谷村(2)東本町(18)中町(2)大明石村(2)西本町(1)当津村(5)材木町(5)鍛冶屋町(1)の芸妓がいました。当津村には別に(1)舞妓がいました。
つまり現明石市の広い範囲に置屋が点在し、明石自体が花街の様でした。しかし、こう広域に渉っていれば、車も無い時代、どうやって花街が成り立っていたか分かりません。
そのころ、区域が限定される祗園などでは“おちょぼ”とよばれる小女が伝達係を努めていました。
また地方では慢性的に踊り、楽器を芸妓に芸を仕込む師匠が不足しており、こう散らばっていては稽古もままなりません。
ひょっとしたら冠婚葬祭などに重宝された町芸者のような妓がいたのかもしれません。
明治十三年十二月は芸妓・舞妓に対する許可地域の制限は撤廃されたとあり、これは兵庫県独特の制度だったと思います。
明治十四年、上記の大蔵谷に貸座敷十四、五軒があり娼妓二十三、四名、芸妓八、九名がいて娼妓も三味線を携えた二枚鑑札と『明石市史 下巻』にあり、明治十四年二月五日の朝野新聞で「みな大阪・西京風でいやみたっぷり。芸者の中に東京風の丸髷に結い、歯を染め、白粉をこてこて塗っている者があり、じつに見るのも厭らしい。」などと書かれていました。
その後明石の花街は大明石町の栄検、材木町の楽検の二検番制度になり、昭和九年、明石市の人口四万六千人、教師が二百四十四人、市職員が八十五人に対し二百人もの芸妓を抱えており“一大産業”でした。(『明石市民史』 神戸新聞明石総局発行)
ただし『明石市史 下巻』では昭和元年で置屋43軒で芸妓178人、昭和七年には芸妓101人と開きがあります。
客は錦明館や衝濤(しょうとう)館などの料理旅館で、新鮮な魚料理と芸者の舞いを堪能し、翌朝船を出してベラ釣りをするのが粋な明石の遊びの典型とされました。
ただ、一握りの旦那衆や企業の接待で利用する以外、大半は大阪や神戸の客で、明石の庶民には無縁の存在でした。
昭和七年五月に明石小唄を公募、「海にや島影アア明石潟」「恋の公園青葉のかげに、ふたつ櫓のアアあですがた」「いろも明石の鯛の味」「味もいい蛸いたぼがき」海に城に蛸に鯛、この恵まれた土地に小唄のネタはつきません。
昭和九年の『明石商工名鑑』をみると上記の錦明館は大蔵町八丁目、衝濤館は相生浜通にあった事が分かります。
又、カフェー(西洋料理、料理、貸席)として材木町にやよい,東仲ノ町二丁目にユニオン会館、桜町二丁目に美人座と銀座会館、錦江町にキング食堂、鍛冶屋町に養老食堂、材木町に竹馬楼、東仲ノ町二丁目にオリエント食堂、細工町にロア酒場。
貸席・料理の欄には大明石町二丁目に春の家、桜町二丁目に王福、錦江町にはじめ、材木町に松本、追手町に千代の家、桜町一丁目に田村、細工町にかもの、桜町一丁目に壽と栄亭、鍛冶屋町に紀乃勢、大明石二丁目に常盤楼がありました。すべて女性名で登録されており、お茶屋さんだと思います。これらのお茶屋が栄検か楽検に所属したのではないかと思います。検番が二箇所あったのはお茶屋が広範囲に渡っていたという側面があったのでしょう。
いずれにせよ、明石市自体が大きな歓楽街の様相を帯びていた感があります。
参照:上記以外『兵庫県警察史 明治・大正編』
衝濤(しょうとう)館
明石公園に近い追手筋にあった料理屋、錦江楼は立派な庭があり、江戸時代に今枝氏という重臣が住んでいました。その後白菊グランドビルになりました。