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by gionchoubu
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伊丹湊町の花街と伊丹新地

伊丹湊町に花街が出来たのは大正の初めらしく、侠客の今井幸吉という男が喧嘩の際刀で切られ左手が不自由になのが渡世の転機になったのか、警察に芸者置屋と検番を開業する旨警察に届けたことから始まりました。その後の伊丹一丁目四の二になります。
置屋として今井、寺本、初音、鳥新、石井、千玉、お茶屋に初音、つたや、とよ吉、ききょう、料理屋にちどり、尼常、他に寿座という芝居小屋もありました。
お茶屋に料理を仕出ししていたのが検番の向かいの寿司善でした。
京都の舞妓にあたるのが“子飼い”という少女で口入屋を通じ親に前借金が渡り、娘は置屋で踊り、三味線、小唄、端唄を習いながら年季奉公しました。
年季が明けると、一人立ちとしての自前の芸者、もしくは、移転先の置屋が元の置屋に引き抜き料として金を積み、その金の一部が芸者の田舎の親に渡り、稼ぎの半分を移転先の置屋、芸妓が残りの半分を取る“半自前”の芸者に区別されました。
昭和の初め湊町に六十人程芸者がいました。
√はやく暮れよと ぬし待つ身には うれし野村の鐘の音
伊丹小唄の一節ですが、この野村の鐘は猪名野神社の北の発音時の鐘でした。
√伊丹よかよか お客がおじゃる おじゃるはずだよ 酒の里
しかし湊町の花街の歴史は短く昭和十六年太平洋戦争が始まると、酒の町が育んだその短い歴史を閉じました。
終戦後、湊町の白雪の富士山蔵の筋向かいの一戸建ての古びた二階を根城にパンパンが三、四人住んでおり、進駐軍のアメリカ兵が夕刻になるとグループで現れ部屋の窓に小石を投げて合図をすると、すぐ降りてきてどこかに連れ立って行ったといいます。
最後に伊丹新地、『占領と平和運動』佐藤公次著の兵庫県篇に
昭和二十四年、坂本市長により保安隊誘致運動が展開され、市の農林六万坪と付属道路の改修費を無償で提供、さらに九万坪の水田をつぶして保安隊兵舎が国費で買い上げられました。
この保安隊用として“伊丹新地”の赤線基地四十軒が設置され遊廓ができたと書かれています。実際は遊廓制度が終了しているので伊丹新地は遊廓でなく、また遊廓後に買春が黙認された赤線でもなく、所謂青線のはずです。
場所は公的な機関の人はだれも首を傾げるばかりで伊丹新地の存在はご存知ありませんでした。
タクシーのご年配の運転手の方は伊丹新地の言葉は頂けなかったものの伊丹市公設卸売市場がその桃色地域で現在全く痕跡は無いとの事、七、八年前その場所に訪れ町の人にも確認できたので、まずここが伊丹新地だったと思います。


