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by gionchoubu
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奈良 木辻遊郭ぞめき 四

『奈良県統計書』によると木辻遊廓は
明治12年 貸座敷19 娼妓89
明治16年 貸座敷16 娼妓152
明治19年 貸座敷14 娼妓129 の推移で移行していきました。
『奈良町風土記 正編』山田熊夫著によると、
明治二十二、三年のころ元林院の同業者が瓦堂町に移り木辻遊廓の一部になりました。
昭和五十七年の『奈良町いまむかし』をみると大正三年十一月二十一日東木辻で奈良市あって以来空前の大火があり木辻の青楼を焼きつくしました。
しかしそのあと好景気になり貸座敷も瓦堂町とあわせ四十二軒になり娼妓も二、三百人になり木辻遊廓は最盛期を迎えたのです。
瓦堂町には江戸期より芝居小屋があり、売防法成立後に一時トルコ風呂も出現しました。
そのころの町の一日は大政官(だいじょうかん)といわれた老夫婦が拍子木を打つところから始まりました。これは“お迎え”と言われ、七時か八時までぐずぐずしていた客を起こすもので、客の中には“花を継ぐ”事により、お昼まで延長しました。
娼妓が店に並ぶのは午後五時ごろから、江戸時代の太夫のような内掛けを着て並びました。これは良く売れる妓から順に玄関口から格子に並んだとの事・・・つまりこの時代に有って珍しい顔見世制度をとっていたようです。
しかしその後、大正の中頃には大和郡山の洞泉寺遊廓がそうであったように県令で写真制に移ったと思います。
昭和五年の『全国遊廓案内』によると、貸座敷三十八軒に娼妓は三百十八人、店は写真制で、居稼ぎ制、廓内に芸者はいないものの料理店に他所から呼ぶことは出来ました。
夜の十二時になると太政官がジャラーと鉄の杖を引きながら町をねり歩き、二時になると太鼓をドンドン叩いて遊女屋が店を閉めました。
さて、今も旅館業を続けておられる静観荘が出来たのは大火の後で当時は岩谷楼という名で木辻では豪奢な庭と玄関口を誇る最大規模で創立当時娼妓二十人に芸者も二、三人居ました。
木辻は戦中も、一寸先は闇、あくる日はどうなるか分からんと言ってくる客が多く流行っていました。
戦後、静観荘には夜中の三時ごろ、ピストルをもったアメリカ兵が慰安場所の下見にきたり、県庁からビールの特別配給がくるようになると、数に限りがあるにもかかわらず「もっとだせ」とアメリカ兵が騒ぎだしたりと、色んな経験が外国人受け入れに役立ったと当時の経営者は語っています。
現在も静観荘には海外の方が多く、同じように京都の七条新地の転業旅館の平岩さんもずっと以前からバックパッカーを中心に現在のブームまでインバウンドを支えてきました。
京都、奈良は修学旅行が多く旅館は、京都の旅館は俵屋、角屋、柊屋、御三家と呼ばれる高級旅館、一般旅館、修学旅行旅館に大別され、基本2食つき、半泊、素泊まり客はシーズン中には歓迎されない状況が長く続きました。
静観荘さんにしろ平岩さんにしろ半泊、素泊まりで気軽に和を体験できる、日本のインバウンド旅館としての魁であったのは事実で、その面に於いても、もっともっと評価されてもいいと思います。


