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奈良 木辻遊郭ぞめき 一

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                        静観荘

『大和名所図会』に「南都の傾城町は木辻鳴川(きつじなるかわ)といいて、縦横にあり。此所の初は豊臣太閤に仕えし虎蔵・竹蔵という二人の奴あり。秀吉公薨去の後蟄居し、両人兄弟のむつびをぞなしける。

竹蔵は其頃南都に住し、堀氏の養子となり、堀市兵衛と号し、虎蔵は洛六状三筋町に住居をかまえ、其時の全盛たる太夫萬戸という者をかたらい、寛永六年に南都において傾城町を訴訟し、遊里を創建す。」

これは明らかに藤本箕山の『色道大鏡』の日本遊廓総目の第九大和国奈良からの抜粋ですが、大変分かりやすく纏められています。

色道大鏡によれば、「是より先、浄土辺に遊女少々ありつれども、家を隔て住ければ、今のごとく、一郭とさだまらざりき。」とあり。この浄土は木辻村北方の城土村のことだと思います。

直ぐ近くに南風呂町(いにしえ元興寺さかへし時風呂屋の跡なり)北風呂町(慶長年間1596~1615銭湯があったとも)があるので湯女のたぐいであったかもしれません。

他の傾城町がそうだったように町中に散らばっていた遊女屋を集め遊廓をなすことにより、風俗の管理とともに、冥加金(税金)の徴収が叶うという大きなメリットが取り締まる側に生まれました。

『奈良坊目拙解』では慶長年間に茶店二、三軒ができて遊女を置いたのが始まりとしています。

さて木辻遊廓が誕生した寛永六年(1629)は京は六条三筋時代で大阪の新町遊郭が営業を開始した年でもあり、女歌舞伎が禁止された年でもあります。

京の島原、江戸の吉原、大阪の新町は幕府直轄の遊里でありましたが、奈良の木辻は奈良町奉行の支配下にあったと思われます。

色道大鏡によると、この遊廓の特徴は、地元の傾城三分の一で多くは他廓からの預かり女や仕切り女だったと言うことで、さらに他廓にはいい遊女を送ることはないので、木辻にすぐれた女は少なかったようです。

また禿や遣手もいないので、遊女は履物も自分で取り出す様は下女の様だとも評されていました。

揚げ代は一番位の高いのが小天神で二十一匁、圍職(鹿恋)が十五匁、半夜九匁、端女郎八匁でした。太夫、天神がおらず、小天神が最高位で揚屋十一軒でした。

同時期の京の島原では太夫が五十八匁、天職(天神)が三十匁、圍職十八匁、半夜十一匁となるので同じ位の遊女は木辻がやや安いという事になります。

井原西鶴の『好色一大男』にも「あない知人。所自慢。爰(ここ)こそ名にふれし。木辻町。北は鳴川と申て。おそらく。よねの風俗。」とあります。

又、「禿もなく、女郎の手つから。間鍋の取まわし。見付ぬうちは笑しく。」

当時、禿のいない傾城町はよほど珍しかったと見えます。

参照:上記以外、『奈良の地名』平凡社

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by gionchoubu | 2019-06-19 11:36 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)