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大和郡山 岡町ぞめき一
岡町は芸者と二枚鑑札の娼妓のいた遊郭で、その昔、菊屋(後の菊水楼)、坂井楼など十軒あまりの店があり、芸妓にも菊屋の小米、坂井の叶など芸達者なるものがおり、中でも菊屋の小豊は流行妓で、奈良の菊水楼はこの妓の力で建ったと言う噂があったほどです。
しかし廃藩置県後凋落して、明治十三年頃には僅かに京咲、京富の二軒の芸妓置屋になりました。その後竹島もできましたものの、それ以外の建物は取り壊され、娼妓も減少、遊郭廃止される方向に進んでいきました。
以上が、『郡山町史』と昭和八年四月一日発行『郷土研究上方 上方遊郭号』を併せた既述です。
『奈良県警察史 明治・大正篇』、添下郡東岡町の表に
明治12 貸座敷 16 娼妓 61
13 16 95
14 15 94
15 12 80
16 13 66
17 13 54
18 13 46
19 12 28
貸座敷は芸妓置屋、お茶屋、娼妓置屋、妓楼を含んでいますので、明治十三年の貸座敷16軒は矛盾しておりません。
そして郡山町史と郷土研究上方の既述を裏付けるように、六年後の明治十九年に娼妓数は95人から28人と三分の一以下に激減しています。
それから京咲と京富が聨合して富咲楼という遊女屋を営みましたが上手くいかず、明治の末に、その後を受け継いだ藤近楼によってなんとか命脈をつなぎました。
この間明治二十八年「県令五十号」を以って、東岡は奈良市の木辻、同じく郡山の洞泉寺と併せ貸座敷営業区域の確認がなされました。
そして郡山の金魚界の中心であった小松氏が立て直しに苦心し、大正十三年、十四年に清月楼、小松氏自身の錦水楼が順じ開業しました。
この頃表参道を除く大字東岡全体が貸座敷地域の指定を受けました。
大正十年ごろ大軌鉄道(現近鉄)が開通、近郊近在はもとより河内方面の客の迎え入れができるようになり、岡町は大いに賑わいました。
娼妓は東岡に設置された県立奈良病院郡山出張所で健康診断を受けました。