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by gionchoubu
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宮川町ぞめき その九

宮川町の路地
大正の初期から昭和の始めまでぐらいで花街、宮川町がたいへん賑いました。
大正の中頃には芥川龍之介もよくこの町で遊んだようです。
宇野浩一は「芥川龍之介―思いだすままに―」の中で昭和九年に龍之介に誘われて宮川町に行ったことを回顧しています。
龍之介は慣れた様子で最初に先斗町により、そのあと宮川町で宇野浩一は龍之介の手配で一泊することになり、事の顛末をしたためました。
其処には私の龍之介像とかけ離れた姿が描かれていました。興味の有る方は宇野浩一全集でどうぞ。
宇野浩一は当時の宮川町の様子を
“宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目の格子づくりである。
それらの家家は、両側に、すき間なしに、たっている。それに、町幅は五六間であったから、私は、宮川町に一歩いれた時、北から南へまっすぐに通っているその五六間幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。
一と口にいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。”
又、京大の教授が「遊ぶんだったら宮川町へ行け」といったことがあるそうで、当時の宮川町は花街の要素が非常に強く、それに芸妓と遊んだ後、お客の要求によっては娼妓が相手になるので一般に芸妓の身持ちは硬かったといいます。
それだけに古老の話によると「宮川町に行った」と親に言えばあまりしかられなくてすんだそうです。
日本が国際連盟を脱退して、中国で関東軍が南下を始めた翌年の昭和九年七月八日、歌舞練場に国防婦人会宮川町分会の発会式が挙行され、二十六日から三日間防護演習が行われ、宮川町歌舞練場は新道分団の配給本部に充てられました。
戦時中は一億総決起の言葉で産業動員にかけられる者もあり、数もへりました。また、芸者遊びが色眼鏡で見られたので娼妓に重点がおかれ、戦後の一時期、宮川町は大正、昭和初期の芸者の町としてより接客婦の町と一般に見られるようになりました。
昭和三十二年、同町には二百五十三業者、接客婦二百六十二人、芸者百二十五人と府下十三遊郭中最大の陣容を誇り、水揚花代は昭和三十二年で一億八千九百七十万円に上がりました。
ちなみに当時の接客婦の場合を見ると一時間の花代六百五十円のうち二百五十円が接客婦の取り分で。置屋百円、揚屋二百四十円、税金三十九円、組合二十一円の分配で、月収平均四万三千二百三十八円で、ちょっとした会社の課長クラスの月給並みでした。内半数は前借金がありました。

by gionchoubu
| 2018-09-17 11:25
| 宮川町
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