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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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今津 女奉公人

今津 女奉公人_f0347663_14270166.jpg
                       今津

平成八年、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」明治四年今津の茶屋として魚屋、中村屋、米屋、伊勢屋、舟屋、傘屋、大和家、亀屋、正木屋そして浜屋二軒の十一軒を確認しています。

さらに同研究では今津町史編纂室所蔵「(明治2年―9年)所用書留帳」を調査し、今津町へ奉公に来たと考えられる者十六人を掲げています。奉公先は十一軒の内、魚屋、中村屋、米屋、舟屋、亀屋、浜屋軒でこの六軒が置屋と思われます。

それ以外の伊勢屋、傘屋、大和家、正木屋ともう一軒の浜屋が揚屋になるのでしょう。

この十六人は明治二年から四年にかけて今津に奉公、差遣、年期奉公、養子縁組、商用、出稼の名目で、十三人が京都、二人が大津、一人が平ヶ崎村より、内八人が八坂新地(祗園)と宮川町(一人)から来ています。

年齢は記されているものは十四歳より三十歳です。

北野裕子氏はこの女達の大半が今津に来たのが、明治四年の五月に集中しているのは、その年の二月に飯盛女を抱え商売している者へ、七月までに移転が申し渡されたのを受け、茶屋が不景気を理由に翌年五月までに猶予を申し出た間に相当するので、経営不振に陥った茶屋が巻き返しを図らんがために京都から女を呼んだのであろうか、むしろ、京都の方から維新による打撃のため流失してきたのでは無いだろうか、と鋭い分析をされています。

面白いのは、上記とは別に明治四年五月に男性の三味線引き三人が米屋と亀屋を引受請人として今津に入り、さらに祗園の富永町の芸妓、玉木妹くミが伊勢屋に六月から七月二十日まで出稼ぎを申しこんでいます。

ここからは私の推測です。

まず明治二年から四年にかけて今津に来た十六人の内、八坂新地と宮川町からの八人は酌人として、他の女はあるいは飯盛女として売られてきたのだと思います。

酌人は芸妓より一段下の資格で、座敷で遊芸も芸妓と同じくすることが出来ますが、ゆるやかな資格です。

そして伊勢屋に来た祇園の芸妓はこの酌人に稽古をつける目的できたのだと思います。伊勢屋にいたのは実際六月から七月の頭までで、その間みっちり座敷舞の指導をしたのだと考えます。

舞の師匠が当時の今津村にいたとは考えられず、こういった風に京、大阪の花街の芸妓が期間を決めて地方の花街の指導に当たるというのは他でもあったのかもしれません。

さらに当時の祗園は、少なくとも明治五年までは踊りの流派が井上流と篠塚流の二本立てだったので、厳しい井上流でなく、比較的習い易い篠塚流の芸妓だったと思います。ちなみに、宮川町を含め江戸期の京都の花街はほぼ篠塚流でした、

明治四年に食盛女(飯盛女)と酌人が旅籠屋や料理屋に立ち入る事を今津役所が禁じたあと、食盛女を抱えた店のみ移転を申しつけられたのは、食盛女が不特定多数の男に対する売色が全ての仕事で、酌人は、茶屋が選んだ特定の男に売色もさせたでしょうが、一応芸が表であったためだと思います。

役所はこの二つを明確に区別していたはずです。




by gionchoubu | 2018-07-15 14:29 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)