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草津東新地ぞめき その四

今回訪れた時この吾妻の看板はありませんでした。


草津新地遊廓をささえてきた一番お客さんは地元の農村青年で、映画館も劇場も貧弱で農村成年の青春を満足させられなかったが、この郭の灯だけは夜の青年の胸をおどらせ、夕闇せまれば、こっそり白米一升をしのばせショーとタイムを楽しんだ、という時代もありました。
また県庁のお役人たちも宴会は石山で、二次会は草津新地へすべり込むコースが常道とされていていました。京都へは大げさだし、大津柴屋町では顔がさすので、草津新地は絶好の「安上がりのよろめき場所」だったのです。
経済的には娼妓一人でほぼ一家を養える程度の収入はあったとされており、このことが逆に遊客であった草津近郷の人々にとって新地が散財の場でもあったといえました。
昭和三十三年に売春防止法が完全施行されるまで、新地関係者も様々な対策を行いました。各種の寄り合いをしたことは無論のこと、業者や娼妓などが政権政党へ集団入党し、政治的圧力によって売春防止法を阻止する方法を考えたりしましたが徒労に終わりました。
昭和33年2月26日の滋賀日日新聞によると、
『六十年の売春史に幕、草津東新地で解散式』『関西赤線のトップ、接客婦の半数は帰郷』
既報=草津市東新地貸席組合=十一業者、中村一組組合長は、二十五日午前十時から同事務所で解散式を行い、関西赤線街のトップを切って六十年の歴史の幕を閉じた。
「この日、事務所前と各業者の店頭には“休業あいさつ状”が一せいにはりだされ、接客婦三十三人は午前中に最後の検診を受け、各業者ごとにささやかなお別れパーティを開いたうえ、帰郷者十七人は最も遠い鹿児島姶良郡蒲生町字下久徳、農業A子さん(22)が一万円をもらったほか最低三千円までを旅費として楼主から支給され、それぞれ郷里に帰っていった。
残りの十六人は芸妓に転向するもの九人、旅館女中一人、結婚三人、未定三人だが、芸妓見習四人は東新地芸妓置屋事務所を旧貸席組合事務所内に設け、旧楼主らも料理八、旅館三に転業することになり、東新地料理屋組合、旅館組合を結成、いずれも天下晴れての許可を待つ事になった。
東新地の全盛時代は戦前で業者十五軒が百五十人の女性を抱え、芸妓六、接客婦四の比率で二本立て営業をつづけていた。
中村組合長の話
二月末日でいっせい閉店を県連合会で申し合わせいたのを草津新地だけが繰り上げたのは警察の圧力が加えられたのではなく、ここの女性たちに一日でも早く更正してもらうためだ。
すでに三人が結婚生活にはいることになっており、他の人々も県夫人相談員の上杉愛子さんの努力で就職の道が開かれようとしている。十一業者も新商売のスタートに速やかな心構えと固い決意のチャンスを逃がさぬためである。」
『朝日新聞滋賀版』昭和33年2月28日によると、本来従業婦の十数名が芸妓に転進を希望しており、昭和三十三年初頭より大津から師匠を招いて三味線、長唄の練習を行っていたものの、警察から元からの芸者十人以上の新規芸妓は認めないという方針をだされたので結局四名のみの志望になったようです。
さらに風俗営業の料理店。飲食店と芸妓置屋を兼ねることも禁じられたので、この四人はこれまでの貸座敷業者のところに居住することが出来ないため、もとの検番に宿泊せざるをえませんでした。
その後の顛末について、私では追うことができませんでした。
参照:草津市史 第二巻