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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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京都パンパン赤線時代 二十七

京都パンパン赤線時代 二十七_f0347663_11330468.jpg

昭和25年6月11日の京都新聞に戦後暫らくたった祗園甲部の舞妓事情が載りました。タイトルは『姿も心も昔のまヽ 時代の流れ知らぬ彼女ら』・・・花見小路の入口がドギツイ外国映画の絵看板に色どられ、その下をコスチューム、カーニバルから抜けだしたドルマン、スリーブのコートを羽織る娘さん。そして四条通りをジープが走り、ストリップ・ショウが流行を先駆ける時代の舞妓はんの生態は如何に?

女紅場の一室で取材を受けたのは、舞妓時代も経験した女将の北川ナカ、松本八重、井上八千代三世に井上流の名取を許された屋壽栄、初子の名妓、昨年の温習会で「江口」を舞った照葉、そして現役の舞妓たちでした。

舞妓を取り巻く環境は、児童福祉法の制定で満十五歳以下は酒席にはべる事が禁止され、それに従い舞妓の年齢は必然的に十五歳以上、又労基法では「義務教育を終えたもの」の規則があり、これでは十七歳以上という事になります。
勤務時間は基準法でも自分の意思によって働くのでまぬがれているが、十一時には引き上げて帰ることになっているのが当時の状況でした。

大正十五年に百五十人いた舞妓は終戦当時二人、昭和二十五年のこの時は十九人でした。昔は四年の義務教育を終えたら出れたので、十二ぐらいから四年ぐらいして襟替して芸者になるのが昔は普通でした。

「うちのえりかえは十六位どしたェ」屋壽栄さんはいいました。当時は六つ位からおけい古に通い、都踊りのお茶席のお運びや島原の道中のかむろ等に出たりして(当時は祗園甲部にも太夫がいました)舞妓になり、二ヶ月くらい見習い茶屋へ行き、見習い茶屋のお母さんとの間で盃を交わし、引いて出てもらう姉さんとの間にも盃ごとがあり、結婚のときの様に結納を納め、帯料、熨斗、目録、松魚などを贈りました。

そして次に『憂さ、ツラさ知らず 人権問題どころか誇りをもって生活』のタイトルが打たれ話は続きます。

以前と違い女子技芸実践女学校の名前の元、舞妓も芸妓もここに通い、普通学化のほか茶の湯、習字に芸事を習うのが当時の祗園甲部の芸・舞妓でした。

彼女達は舞妓である事に誇りをもち悲しみだの苦痛だのを感ぜず、この世界に住むことが彼女たちの夢の実現であり、少しぐらい情けないことがありそうだと記者は思ったが、「アテかなわんことッテあらしまへん、そんなけったいなことあったら逃げて帰るのどすェ」と自己を主張しました。

彼女達が身に付けるもの、着物はたもとが長いので二反は必要とし、帯も帯留も長いもので、鹿の子でもすべて別あつらえ、ひとそろえ七、八十万はかかる、かつては帯模様に鳥の目にダイヤを入れただらりを締めた妓もあった由。

「四条の橋をくるくると絵ひが回し地方からきた女学生に呼止められて、サイン責めされ、白粉に汗をにじます舞妓姿も絵なら、赤い楼門四条通ゆき当たりの祗園さんのきざはしを、朝まいりする後ろ姿も名工彫る人形ではなくてはならぬ。」

それから七十年後の今、地方からきた女学生が海外から来た外国人に替わっても、芸事と気苦労に日々追われ、座敷に引っ張りだこの舞妓事情は替わらないようです。




by gionchoubu | 2017-09-07 11:34 | パンパン、赤線 | Comments(0)