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祇園ぞめき その十四
安政の島原焼けから十年後の元治元(1864)年、蛤御門の戦火による「元治のどんどん焼け」では火災を免れたものの、慶応元(1865)年、三月二十六日の火災は「慶応の新地焼け」と呼ばれたように、祇園から出た火事で、祇園は一部を除いてほぼ焼失、ですから現在祇園にはそれ以前の建物はありません。
明治三年、この時まで京都遊郭は島原の支配を受け、出店、出稼の形をとって取り締まりを行ってきたもののその効果は現れず、却って束縛の弊害の方が強かったとして、其れまでの組織は総て廃止、遊女屋は会社形式を取るように通達がだされ、祇園もそれに倣いました。
この時、以前説明を試みた見世制度は終わりを告げ、検番制度に移行したのだと思います。
それとは別に、明治五年、外圧により新政府による遊女解放令(芸娼妓開放令)が出されたものの、実情は甚だ心本無いものでした。実家が困窮して娼妓の道しか生きるすべをもたない女が解放され、親もとに帰ったとて、親共々共倒れする以外道はありません。
後の京都知事、時の大参事、槙村正直は、「本人が希望するなら、芸・娼妓を続けてよい」とし、貸座敷、芸娼妓に月税を納めさせる事であっさりこれを認めたのです。
それと平行し、芸娼妓を解放して正業に就かせるとして、所謂職業訓練学校として「婦人職工引立会社」の設立の機運がたかまり、祇園では早や明治六年に出来て、女たちに料理、裁縫、活花、養蚕、琴、三味線、舞踊を教えました。翌七年に「女紅場」(にょこうば)と名称を変えました。
現在祇園として観光客を集める四条~建仁寺間の祇園町南側は江戸期には建仁寺が明治五年に社地領上知令にもとづき、京都府に上地したもので、そして同年京都府から女紅場に払い下げられたものです。
この時、京都府側で尽力したのが参事の槙村正直(後の京都府知事)花見小路の名付け親です。そして祇園側で推進したのが一力茶屋の杉浦治郎右衛門でした。
この時建仁寺の塔頭で廃寺になったのが、清住院・霊源院・定彗院・光沢庵・普光庵・正伝院で残ったのが大中院・普光庵・正伝永源院。常光院です。
『京都新聞』西京新聞社、明治五年五月の地図をみると、
現一力茶屋は女工(紅)の文字が見え、一力さんは神幸道(八坂神社西楼門の南の道)の南東角に移っています。
そして花見小路の東側、現在の一力さんの南、旧正伝院跡が下京十五区女工場分局製茶所、その南、青柳小路の南が.下京十五区女工場分局養蚕所で、養蚕所の東、旧福寿院跡が療病舘です。
さらに花見小路西側の一筋目(初音小路)の南が初代の歌舞練場でこちらは清住院跡で、第二回目以降の都をどりがここで催されました。
尚、明治五年の第一回のみが、現東大路新橋西入る南の路地にあった寄席「松の家」でした。その附近で一番の老舗、「いづ万」さんにお尋ねしたところ、松の家のことはご存知ですが、場所までは後存知ありませんでした。
私も随分しらべましたが、未だ場所の特定には至っておりません。
参照:論文「花街らしさ」の基盤としての土地所有―下京第十五区婦人職工引立会社の設立から―松田有紀子
by gionchoubu
| 2017-05-01 11:55
| 祇園
|
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