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祇園ぞめき その十三
仮宅は、江戸が本場で、公許の吉原が火事で営業できなくなった場合、業者は他の地の一般町人・百姓などの家を借りて遊女屋渡世をすることになり、吉原が全焼した十九回に対し二十回、この特別営業が許されたそうです。
京都の仮宅事情を書いてみます。
祇園の幇間、富本繁太夫の日記『筆満可勢』の天保七年(1834)二月十六日に「島原御免(公許)の廓なれとも、祇園新地当時殊の外流行にて被押、夫に付普請根つぎを願ひ、祇園下河原辺不残仮宅、然に此日背揃へ迚、長柄傘にて太夫道中、見物群集故四五人怪我人、老人一人即死」
家々は赤飯を炊いてまるで祇園ねり物の様だ、と書いています。尚この日、見物人あまりにも多く太夫道中は中止になったとの事でした。老人も家で枯れておればいいものを、色気を出し太夫道中に繰り出すから、取り返しの付かない状況になったものと思われます。
この天保の仮宅は天保元年、七月二日、京阪地震を受けたもので、島原の大半が倒壊、島原が祇園下河原六か町で臨時営業を認められました。
天保七年申三月改『島原仮宅名寄一覧』を見ると桔梗屋、輪違屋、亀屋、えび屋の太夫、天神、端女郎、芸子の名がずらりと並びます。所どころ名前に線が引かれている者がおり、これは落籍されたりして、この時点で居ない者でしょう。三月改はその前の版があった事を物語ります。(名前の線は、消されているのではなく、刷りの状態が悪く、そう見えるのだと、改めて見ると思いました。訂正させて頂きます。5月3日)
其の後、安政元年(1854)年四月に大宮御所より出火し御所を始め五千七十八戸を焼失させた火事がありました。同年八月島原遊郭でも火事があり角屋の辺りと下之町の一部を遺して全焼、輪違屋も焼失しております。
『日本花街史』で明田鉄男さんが安政元年の島原の火事に触れ、「この火事で島原を出、宮川町の仮宅へ移り住む業者もあったという。」と書いています。
思えばこの時代、天保の遊所整理もあり、京都の花街史は激動の時代でした。
今一度江戸の仮宅事情を『日本史小百科、遊女』西山松之助編で見ると、仮宅のは、遊女の装い、化粧なども控えめにするのが条件で許可されたので、一種日常の気分で遊べるのが珍しく、仮宅営業のお陰で、経営難の遊女屋が持ち直すほど賑ったといいます。
遊女屋の主人達の中には心の中で仮宅を望み、ぼやですむ火事でも、満足に消化活動をせず家財運搬に力を入れ、新天地の営業に想いを馳せた者も多かったようです。
さて、江戸で仮宅の期間は天保六年、三百日・同八年、三百日・安政二年、五百日・文久二年、七百日とだんだん長くなっているのは「仮宅が賑ったので、幕末になると、長期間許可してもらうのが通例になったのではないだろうか。」と本書は分析しています。
それに引き換え島原は祇園では六年を過ぎても仮宅が続けられています。よほど人の集まる祇園での営業収益がよく、業者は島原は戻りたくなかった様子が読み取れ、色んな理由をつけ、祇園から離れなかったのだと思います。
by gionchoubu
| 2017-04-25 13:09
| 祇園
|
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