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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園ぞめき その六

祇園ぞめき その六_f0347663_12555045.jpg
大和橋の袂の碑・・・妓女が右褄を取っているので、遊女と知れます。(芸妓なら左褄を取ります)

大和橋は祗園新地形成に大きな意味を持っていました。

というのは、石井琴水の『伝説の都』などによると、貞享年中所司代内藤大和守重頼が木造の橋を架設して大和橋と命名したが、木橋であるゆえ出水の都度流失・・・地頭の寶樹院も困り果て、何とか石造にしたいものの、問題は費用、苦心の末、茶屋渡世の許可を一日千秋の思い出待ち構える内六町のものに計ると、願書通り茶屋渡世三十戸を許せば、その三十戸が割賦で冥加銭を差し出す
といいました。

時の所司代土岐丹後守頼念(よりとし)は、享保十七年、内六町へも茶屋渡世を許可しました。正徳三年、内六町が開発されてから19年後の1732年の事でした。

因みに大和橋は明治四十四年に川幅を狭める為、橋を架け替えられました所、正徳三年の橋は予想外の堅牢であったと『伝説の都』に書いてあります。

大正四年に夏目漱石が、文芸芸妓で名高い磯田多佳のお茶屋、大友を訪れた話が残ります。とすると埋めたてられたはずの土地に有った大友(今のかにかくにの碑のある所)は明治四十四年~大正四年以前に建てられた事になります。

話を戻すと、これらの茶屋女は表向きは実業の給仕女なれど、その実非公認の遊女で、茶屋一戸につき茶立女一人と決められていました。実業なら大きい茶屋なら何人給仕女がいても良いわけで、わざわざ一人と決められているのは当局でも折込すみ、つまり一軒に付き一人の遊女は見逃す、と言っているに等しい訳です。

しかし、茶屋の方では営業上、何人も女を抱えるわけで、寛延三年(1750)十月には祗園町、宮川町の非合法茶屋女多数が公許の遊郭である島原に送られます。

翌年宝暦元年(1751)祗園町に茶屋株十軒、縄手通に同十軒、宮川町に十五軒、十年間の期限を切って許可。

その後、天明八年(1788)の京都近世で御所、二条城、所司代も全焼したものの、祗園は無事、景気優先で、茶屋株の年限までなくなりました。当局のご都合主義が顕著です。

ところが、又方針転換、寛政二(1790)年、名高い寛政の手入れで、祇園町、祗園新地で発覚した隠売女は、他の現京都市の他の遊所の非合法遊女は島原に送られました。その数千三百人、最末端の遊女として働かされたと言います。









by gionchoubu | 2017-03-23 12:59 | 祇園 | Comments(0)