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祇園ぞめき その四
『守貞謾稿』の芸子の項
「げいこ、弾妓なり。すなわち江戸に云ふ芸者なり。昔は芸子これなく。遊女三弦をひく。その後、未熟の遊女は弾くことを得ざる者あり。あるひは尊大を究めて自らこれを弾かず。『一目千軒』に曰く、太夫・天神自ら三弦をひかざる故に幇間女郎を呼ぶなり。また芸子と云ふ者ほかにあり。昔はなかりしに、宝暦元年に始る、云々。『澪標』に曰く、たひこ女郎と云へる者は、揚屋・茶屋へよばれ座敷の興を催すための者なり。琴・三弦・胡弓は云ふもさらなり、昔は女舞も勤めし者なり。享保年中より芸子といふ者出で来たり。云々。しからば大坂は享保、京は宝暦に始まるか。」
幇間女郎(たいこじょろう)座敷で演奏や座興を受け持った者で、芸子と違うのは遊女であったという事です。
さらに『洛陽勝覧』には、既に祗園に大津屋や鳥羽屋という男の幇間持の見世が有り、臍本茶平、すぬ庄兵衛、昆布吉の様な名で役者物まね、三味線、唄などで座敷を盛り上げていました。幇間もすでに祗園を賑やかしていました。
幇間持ち、幇間女郎のどちらが先に世に現れたかは定かでありません。
果たして、祗園に芸子(妓)が現れたのはいつだったのでしょうか?私は『一目千軒』宝暦七(1757)年で島原に芸子の名前がのりますので島原で芸子が現れたのは、吉原がそうだった様に宝暦の初めぐらい、さらに祗園に芸妓が現れたのはさらにその先と考えていました。
ところが『洛陽勝覧』元文二(1737)年の新里(祗園新地)女郎名寄の最後に
芸舞子
ふしえ いせ升出、かけ人形 義太夫引語、舞おとり、物まね人
小さこ 舞しほらし、座斗、大坂出
小まん 同、同
尾上兼松 舞殊外しほらし、切返し津国出、詰半し同
と、載りますので、元文にはすでに芸舞子の存在が祗園に有った事になります。ゆえに享保の終わりには京都に芸子(妓)はいたと考えてもいいでしょう。
そして本居宣長の『在京日記』の宝暦七年の記述に「此ころ宮川町夷の辻子にて、藝子かつ野といへる妓を、子供芝居の役者虎蔵といへるか、きりころし侍る、きりてはかけ落したりしを、程なく大坂にてとらへて来たりとかや、此かつ野といへるは、即宮川町の生れの女にて、二親も其身もよく知りたる者なるか、いと不便なること也とそ思ふ。父母かけなき、思ひやりて哀也」
宣長が、紀行中の京都で、ごく普通に芸子を述べているのを見ると、宝暦に入ると相当世間では芸妓が認識されていた事が分かります。
この在京日記で宣長は宝暦、六年、七年の両年に祗園町と祗園新地が別々に、莫大な費用がかかる“ねりもの”(祗園会の夜の妓女による仮装行列)を催したと記していますので、祗園町のみならず、祇園新地も相当に羽振りが良かったことが想像できます。
その後、明和になると、富永町は単独でねりものを出したりしています。祇園新地の中でも、富永町は特別な存在だったと思います。
by gionchoubu
| 2017-03-07 13:01
| 祇園
|
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