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by gionchoubu
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祇園ぞめき その三
寛文六(1666)年、祇園町外六町(そとろくちょう)弁財天町、常盤町、二十一軒町、中之町、川端町、宮川町一丁目が開拓され、つづいて正徳三(1713)年、祗園内六町(うちりくちょう)、元吉町、末吉町、清元町、富永町、橋本町、林下町も開発されました。
『月堂見聞集』の正徳元年(あるいは二年)に「四条大和橋東側新地五御赦免、四条通にも入口付候、東は智(知)恩院前迄築申候、祗園領」開発以前なので当然町名はまだ付けられて無くこういう表現になった模様です。
そして享保十七(1732)年、祗園内六町に茶屋渡世が許されました。これが祇園町に対する祗園新地に当たります。
京都の町名は、本町などの例外はあるものの、殆ど何丁目というのが無く、人名、職業名、寺院名などが由来となります。ところが新地として開かれた宮川町筋一丁目~五丁目や清水町一丁目~五丁目は珍しく何丁目を採用しており、七条新地の町名も上二之宮町、十禅師町、聖真子町など総て近江の日吉神社にゆかりのある名がつけられました。
つまり、新地は一度に多くの町名を付ける必要にかられ、つい一丁目、二丁目としてくくりをつけるか、何かに関連を求めたと考えられます。先斗町も開発された新地で、町名には松、梅、柏、などの目出度い名が入っているのは偶然かもしれませんし、何か意図があるのかもしれません。
祗園内六町には元から吉で有りますように、末まで吉で有りますように、富が永く続きますように、という命名者の願いが入っていると私は思います。
一方、江戸の町は巨大な新地のようなもので、当然~丁目を入れないことには、巨大な町の町名付けを為し得る事は出来なかったはずです。
新地が出来た頃の様子は安政五年(1775)『居行子』に「愚も七、八歳の頃、祗園新地もいまだ建そろはで、そこかしこに草生しげり、薄(すすき)と家と入りまじり、まばらなりしを覚侍る。その辺今は大屋敷の売買には千両、二千両の価となる云々。」といった状況でした。
『洛陽勝覧』を見ると、享保の終わり頃には
祗園町
北側西より、井筒屋、扇屋、若松屋、和泉屋、吉野家、鍵屋、米屋、松代屋の青楼が立ち並んでします。井筒屋は明治まで残った祗園第一等のお茶屋です。
南側東より、十文字屋、扇子屋、大津近江、志水屋、万屋、松屋、扇子屋、吉文字屋、
祗園新地
として挙げられた町名は、富永町、末吉町、日枝町、清元町、元吉町、新橋森下町、橋本町です。
茶屋として、大賀、蝋燭亀、鯛鍵、吉更(桔梗)菊、亀、松芳、林高砂、虎、富田、海老蛭子、山形、梅鉢、近江、伊勢升、帋、玉大いせ、升、住吉、松島、笹、木国があり、新里女郎名寄(名簿)に若詰、中詰、本詰(年齢による遊女の種別)に300人近い女郎の名が載ります。
富田は祗園新地第一等のお茶屋、現在の富美代の前身“ひっこみの富田屋”と呼ばれ、現在の富美代さんから北に大和橋までの敷地があった、富田屋(とんだや)と思われます。
by gionchoubu
| 2017-03-06 12:06
| 祇園
|
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