花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。
by gionchoubu
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祇園ぞめき その二
田中緑江さんは『祗園さん 祗園界隈』で三条~四条間の縄手通りを
「元禄頃にはまだ農家があったり、空地も多く、三条辺までの縄手は追剥が出たと云います。宝永・正徳の頃にこの堤の四条の北の辺に十軒程の小屋、それは取葺屋根、竹垂木の間口狭く、奥行き一軒半計、踏込付の建物、軒に鉄色染(かちんぞめ)の水引暖簾をかけ、長い四角な大行燈を台に揚げてこれに家名を記しました。竈茶棚を置き、お客があると煎茶を出し、煙草を吸付て客を饗応(もてな)しました。この家族は他所に住み夜になると出て来て店をあけて客を迎えますので蛍茶屋と呼ばれました。その女は金巾木綿に模様或は糸入縞等を着、衿に少しの絹物を付けカチン染の前垂をしていました。これが祇園町が花街になる最初の女で、その後四条通始め附近に家が沢山出来、茶立女等が客の求めに応じ酒をすすめる様になりましたが、安永の頃には蛍茶屋はなくなってしまいました。」
『洛陽勝覧』博望子、元文二年(1737)に、
「縄手 大和大路と称す。いにしへの大和大路なれば也。此筋元結多、名物也。東側商売家にして西側多く茶屋也。是をなわての茶屋と云。此辺京中随一繁昌の所なり。茶立女有。
縄手(現在は四条より北を縄手通り、南を大和大路と呼んでいます)は大和大路として、東海道五十三次の最終地三条大橋と、伏見街道を結ぶ機能があり、京中随一繁昌となったのでしょう。元結(もとゆい、もっとい)とは髷の髻(もとどり)を結ぶ細い紐のこと、西側に茶屋があるのは鴨川を望める為でしょう。
そして縄手茶屋として四十七の茶屋の名を揚げています。こちらは売色を主にしていたと思われ、一座四匁とのこと。
大和橋より半町北西頬に金屋という仕出弁当屋あり、名物に九重、八重桜の弁当があり、うどん、蕎麦切り、豆腐、酒は何処でも配達し、毛氈、野風呂、屏風、幕などもレンタルしていました。
又、安永(1772~1782)以前の元文なので蛍茶屋が、菊、和泉、大坂など四十軒近くも有り、非合法な女を置いていました。
その他料理茶屋、さらに芝居茶屋も四条の芝居小屋に近づくにつれ沢山ありました。
面白いのは、新橋縄手東に入った所に、いせ風呂という、猿(背中を垢かく様子に例えて)とよばれた遊女を置いた風呂屋があり、一座四匁、一日揚げ 五つ詰、の記述があることです。
江戸の風呂屋の研究は進んでいるようですが、京都の風呂屋について考察された本は見かけないので、ここに縄手以外の『洛陽勝覧』に載る他の風呂屋の情報を挙げておきます。皆二階に座敷を持ち、売色を主にしていたと思います。当時の風呂屋は蒸風呂で後年今の銭湯スタイルの湯屋に変わっていきました。
太夫風呂 西洞院魚棚下ル西側、一座四匁、一日揚拾六匁、留風呂早五匁
松屋風呂 室町五条上ル町、一座四匁五分、泊まり拾八匁
蛭子風呂 東洞院六条下ル町、大女郎、拾三匁、小女郎、九匁五分
柳風呂 堀川一条ひかしかわ 一座四匁、一日揚 弐拾匁
池田風呂 七条新地中筋正面上ル町
今は見せ女郎はかり
by gionchoubu
| 2017-03-03 14:15
| 祇園
|
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