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by gionchoubu
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大津、柴屋町ぞめき 十九
現在の柴屋町で花街時代の華やかさを知る人は芸妓市子さんと、花柳のお師匠さんぐらいでしょうか。そして赤線時代を語ってくれるのも、お祖父さんが貸席、友春を営んでいたお孫さんぐらいになりました。
そのお孫さんによると、毎日のように診療所で性病の検査を受けていた“おねえちゃん”より、今の素人さんを含むプロの方のほうが余程恐いとのこと、いずれにせよ、私には縁遠い話なので落ち着いて耳を傾けることが出来ました。
三回に渡り、色々お話を伺いました。そこで得た情報の一つとして、柴屋町の本筋から商店街を渡り、お寺を抜けた最初の筋が出張新地と呼ばれる、柴屋の出張区域があった事が有ります。
今は面影も無く、住んで居る人でこの事実を知る人も希でしょう。柴山より一段落ちる一種の赤線と思われ、業者と警察の綱引きで出来たものだと思います。
他所でも例はあると思いますものの、珍しい事例と思います。
また、別所の市民文化会館あたりはかつてダンスホールで、この辺りはパンパンの領域、料理屋か旅館で商売をし、柴屋の合法の女達と、お客の取り合いで何度か大喧嘩があったという興味深い話から、柴山をどりの会館では、当時唯一大津でソフトクリームが食べられたという他愛の無い話まで、何回図書館に通っても得られない話ばかりです。
さて、平成三年三月二日の朝日新聞の滋賀版の朝刊に「柴屋町、遊び方も様変わり」の記事が載ります。
この年、まだ柴屋には七軒のお茶屋があり、芸子も十人いました。ただ、お茶屋に客が入る事は無く(以前書いた様に、京都以外、お茶屋の鑑札では料理や酒を提供できない)ホテルに呼ばれる接待が主だった様です。
共に、柴屋町で別のスナックを営む中島栄さんと山下みつ子さんによれば、お二人が昭和二十六年、芸子になって連日、三味線、小唄、長唄、常磐津の稽古に明け暮れた花街柴屋には二十七、八人の芸子がいました。
戦後の最盛期は昭和三十五年頃で、十五軒のお茶屋に四十人の芸子がいたことになります。これらのお茶屋の実質は芸妓置屋で、料理屋などに芸子を送り込んでいたのでしょう。
この記事の前年平成二年に、地区のシンボルであり、芸子たちの稽古場になっていた、明治の三階建ての建物が、老朽化がひどく取り壊されたとの事、以前書いた検番の事でしょう。
ただ中島さんが会長を務める芸妓の「みどり会」はこの時点では健在、大津絵踊りの保存、伝承に力を注いできた事が認められ、湖国のイメージアップに貢献したとして県から「ブルーレーク賞」を贈られています。これも平成二年でした。
現在柴屋芸妓は私の知る限り、濱三津の夕子さんただ一人が、旅館を中心に伝統を引き継いでおられます。京都の宮川町、東京の新橋、そして島原の輪違屋で十代目御当主の元でも芸を磨かれていますので、大津花街の灯を燈し続けて欲しいものです。
by gionchoubu
| 2017-02-13 14:00
| 亡くなった滋賀の遊郭
|
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