
花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。
by gionchoubu
カテゴリ
全体上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった山陰の遊所
亡くなった大阪の遊所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の遊所
亡くなった東海の花街
亡くなったその他の遊所
亡くなった日本の遊郭
亡くなった四国の遊所
未分類
以前の記事
2025年 01月2024年 12月
2024年 07月
2024年 03月
2023年 01月
2022年 11月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 01月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
お気に入りブログ
最新のコメント
| <五番町> 三番町、四.. |
| by HD at 00:29 |
| 昭和36年生まれ、現在6.. |
| by HD at 00:28 |
| お懐かしゅうございます。.. |
| by gionchoubu at 15:17 |
| 信じていただけるか分かり.. |
| by とし彩 at 01:20 |
| > 花月さん 私も気を.. |
| by gionchoubu at 15:53 |
| ぞめき様 お返事ありが.. |
| by 花月 at 13:14 |
| > 花月さん コメント.. |
| by gionchoubu at 23:52 |
| 初めまして、角屋の建築に.. |
| by 花月 at 02:02 |
| お返事ありがとうございま.. |
| by kinsan at 18:15 |
| > kinsanさん .. |
| by gionchoubu at 21:56 |
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
五条楽園その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
| 桔梗屋 |
| at 2025-01-28 12:50 |
| 安本旅館の裸婦タイル画 |
| at 2024-12-13 10:05 |
| 京都の遊郭の町名に関する一考察 |
| at 2024-07-24 10:08 |
| 女郎うなぎ福助 |
| at 2024-03-04 19:14 |
| 新居、芸妓置屋小松楼 |
| at 2023-01-11 11:10 |
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
清水新地(阿古屋茶屋)

『京都遊廓由緒』によると清水二、三、四丁目の茶屋街に、寛文十年(1670)西町奉行雨宮対馬守正種は茶屋一軒につき茶立女一人以上置いてはいかぬ、と命じました。これは普通に考えて、茶屋を女一人で切り盛りするのは無理なので、あまり遊女渡世を派手にやるなよ、と釘を刺した訳です。
第一茶屋が正業ならば、茶立女の人数を規制する意味が無いわけで、規制するという事は、茶立女が客を引き込むのを、お上はお目こぼしをしている構図が見えます。
同書では、元禄四年(1691)清水二、三、四丁目に遊女厳禁の達しがだされています。ところが平凡社『京都市の地名』による『元禄覚書』の記述を見ると「茶屋数百六軒清水」は当時の祗園七十一軒を上る勢いです。
この増殖に歯止めを掛けるためか、『元禄覚書』に「宝永四(1707)亥年十月十八日、不届有之、八軒減、除之」と注記があります。
少し時代を経た『京都御役所向大概覚書』の記述を見ると、正徳期にはさらに軒数が増え、清水二丁目29軒、清水三丁目39軒、清水四丁目43軒、茶屋は増えています。
『京都遊廓由緒』には、正徳三年(1713)類焼に依り困難を申立黙認を得た(清水三丁目で火事、類焼茶屋の二丁目での営業を許可)と有ります
『嬉遊笑覧』では正徳五年板の『艶道通鑑』はこの辺りの情景を「清水寺につゞきて北斗堂、霊山寺、法観寺云々、いつしか淫婦(あそびめ)・屠児(にうり)の栖居となり、掻立し法灯は夜店の行灯にかはり、焼しめし香烟は樺焼の匂ひに変ず。鼠鳴が簾をくゞりて、あみ笠の後甲を抓み、暖簾が風に動て家名ぞ人を招く云々」無味乾燥な清水遊所の記述ばかり見てきましたので、骨ばかりの記述に身がついた思いがします。
その後、『日本花街史』では『古久保家文書』を紐解き、寛保三年(1743)顕随という坊主が大津屋という三丁目の茶屋娘を殺害した事件を受け、茶屋に対する規制が強まったとされています。
さらに『京都遊廓由緒』では寛永三年(1750)、茶屋商売一旦差し止め、その後解除、寛政九年(1797)、四丁目が分裂して四丁目と五丁目になる、ともあります。
寛永三年(1750)公に許可され大に繁盛す。天保三年(1832)一旦禁止されましたが、安政四年(1857)清水五丁目の茶屋株を四丁目がひきうけます。そして明治六年廃止されました。
京都遊所競の序列では、最下等の遊所の一つでした。清水新地は別名阿古屋茶屋と呼ばれています。これは芝居の中で、清水新地に阿古屋という遊女が、重要な役割を持った為です。
京都市には本町などの例外はあるものの、~丁目が非常に少ないのが特徴の一つだと思います。先斗町、七条新地、祗園、二条新地で一気に新地として新しい呼び名をもらった開発区域も、それぞれが固有の町名を頂き、新しい町作りに対する人ゞの意気込みが感ぜられるものです。
新地としての清水が2~5丁目なのは(1丁目は清水寺自身)何かこう、思い入れの無さみたいな、気合のなさのような物を感じるのは、多分私だけの事でしょう。
by gionchoubu
| 2016-08-31 12:42
| 京都の花街・遊廓
|
Comments(0)
