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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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島原遊郭ぞめき 昭和の島原

島原遊郭ぞめき 昭和の島原_f0347663_10441288.jpg
                     大正時代末の島原太夫

昭和の島原遊廓を見てみます。昭和五年発行の『全国遊廓案内』によれば、貸座敷148軒、太夫、伯人、娼妓併せて434人、太夫、伯人は揚屋に送り込み、娼妓は居稼ぎ、太夫が揚屋へ送り込まれる時は、太夫の名を赤漆で書いた黒塗りの長持ちをが男衆によって担ぎ込まれた、その中には夜具から枕箱、煙草盆に至る迄の調度がはいっていた、と島原が傾城町として立ち上げられた時の風習が昭和になっても尚、続いていた事が分かります。。

揚屋に一泊して、翌朝「お座敷拝見」すれば三十円はかかるといいます。当時京都市電の料金が六銭均一ですので、現在の市バスの均一230円から計算すると、一晩12万円弱、この算出が妥当かどうかも分かりません、又この料金が高いのか、安いのかも判断できる材料がありません。そして代表的揚屋が角屋、松本楼、輪違屋、他に花月楼、第二尾崎楼も堂々たる構えの家として紹介されています。

昭和六年、内務省警保局の『公娼と私娼』によれば、業者数146、娼妓数483となり、娼妓数としては京都市では七条新地1、340、北新地(五番町)681に次いで三番目の規模となります。

昭和八年四月一日、『郷土風景、諸国花街号』で田中緑江は「祇園と島原」で昭和七年十一月待末の調査として太夫十四人、伯人三十二人、芸妓六十人、女郎五百二十五人、第一貸座敷百四十、第二小方家六十人としています。緑江さんは当時の島原を、

「この廓の二、三軒だけがズヌケてゐる他、娼妓本位の廓であるために、如何に昔ながらの太夫がおってもそれだけでは廓の品位を保つ事が出来ず、三流廓といってもよい」

「名物の太夫十四人は余りに淋しいがこれ又祗甲の舞妓同様、毎日売切れの太夫でも、よく流行する平娼妓に及ばず、結果種々な物入りだけ嵩むで損と云ふ事になるので太夫を置く家が少なくなって来ているのも時勢の力で仕様がない。」

「昔の様に禿から太夫の見習ひをして太夫になるのではなく、太夫とて鑑札は同じ平娼妓であって抱える時でも太夫にしやうとして抱へるのでもなく、女も又太夫を望んで来るのでもないそうである。平娼妓として契約し、これなら太夫にさせられるのだろうとみてとって太夫の諸心得を教えへるのである。」

「現在立派な太夫の何代目かをついでいるが、お茶と花を活けるのを稽古している丈で、大きい髷、おはぐろをつけた黒い歯、素足でゐる事位が太夫の姿であると云っただけで、多少平娼妓よりも一夜妻として客を満足さす様に努める事は知ってゐる様である。」

そして「太夫らしい太夫はゐないが又、同時にお客らしいお客もゐないのが現代である。」

かつて公家文化の薫り高く、大名をも迎えいれた太夫は学問もあり、品格もあり、遊芸にも達し、貴賓の相手として恥ずからぬ物もおりました。つまり太夫文化を育んだのはお客の方で、多少の小金持ちを相手の太夫なら、それなりの太夫しか育たないという事であります。

「最近の~は」というフレーズは過去、現在、これからも限りなく使われますが、そのうちの幾つかは将にそれを言ってる本人に跳ね返って来る・・・と言わざるを得ません。


by gionchoubu | 2016-06-17 10:48 | 島原遊郭 | Comments(6)
Commented by kayohosoda99 at 2016-06-22 19:18
娼妓は居稼ぎでしたか。
映画・廓育ちの通りですね。
Commented by gionchoubu at 2016-06-23 12:01
> kayohosoda99さん

コメント有難うございます。廓育ち、三益愛子の怪演忘れ難いです。
宮口精二は七人の侍では野伏りの銃弾で生を奪われ、廓育ちでは美しい女将に毒殺され・・・いい味出しています。
進藤英太郎、この時代の廓映画に良く出演されていますね。
そして三田佳子、チンピラに切る啖呵が素晴らしい。
Commented by kayohosoda99 at 2016-06-25 01:18
進藤英太郎。
祇園の姉妹(祇園乙部)、その戦後のリメイク版、赤線地帯(吉原)、噂の女(島原)、廓育ち(島原)。
もう欠かせない存在です。

三益愛子の「末広」は居稼ぎの一見茶屋で、
進藤英太郎の「美よし」は揚屋兼置屋(家娘が芸妓)のようですね。

太夫道中に宮口精二が「今日はアルバイトか」 荒木道子「お断りしたんどすけど廓一の芸妓やから」の会話がありました。
太夫、芸妓、おやまの区別が付いていますね。
Commented by gionchoubu at 2016-06-25 12:33
> kayohosoda99さん

祇園囃子も出ておられましたね、妙にリアリティがあり忘れ難い役者さんです。

映画中、末広の向いのネオンが気になり、色々調べましたがわかりません。或いは映画用に誂えたものかもしれません。大門前のお茶屋鶴種も最初のカットに使われています。現在も残るお茶屋さん跡の一つです。

京都の娼妓さんはだいたい“おやま”と呼ばれていたようです。遊女の人形、おやま人形から出ており、歌舞伎の女形と語源が同じらしいです。
Commented by kayohosoda99 at 2016-06-25 20:48
芸妓が臨時で太夫道中に出るというのが興味深いです。

あの映画を最初に見たのはテレビ大阪の深夜映画で、
30年前です。
ふらっと島原を散策しました。
あの末広の建物も、歌舞練場もあったと記憶しています。

あのような内容で、現地ロケが行われたことに
驚きました。
大門の通りで、引っこのオバはんが客引きしていますね。
Commented by gionchoubu at 2016-06-27 15:34
> kayohosoda99さん

ご存知かと思いますが、木村聡さん著『赤線跡を歩く、完結編』に今から30年前の島原の写真が多数載りますね、今はありませんが“廓育ち”で効果的に使われていた唐破風の屋根が印象的な貸座敷について等々、近々書きます。