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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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島原遊郭ぞめき 明治時代

島原遊郭ぞめき 明治時代_f0347663_14013644.jpg
島原西門・・・「島原西門が即死、130年保存オジャン、トラックがひっかける」のタイトルがある京都新聞夕刊を見ると、昭和52年11月22日午前10時45分ごろ、門をくぐり抜けようとしたトラックの荷台のホロが、門の梁に引っ掛かった。このショックで土台石に四本の柱を載せただけの西門は屋根から崩れ落ち全壊しました。西門は檜材の四脚門づくりで、観音扉が設けられているが通行人のためにいつも開門していました。

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島原は京都の遊廓を支配下に置き、各所の茶屋遊女屋渡世の鑑札を交付する立場にありました。この制度が明治三年崩れ、直接京都府がこれに変わり、鑑札も府が交付することになりました。

日本三遊廓の一つ、京の遊所の根本として君臨した傾城町西新屋敷島原が、ある日突然、京都の町外れの一遊廓になったわけです。各藩の京屋敷の大宴会も当然姿を消しました。

『売買ひとり案内』明治十一年刊によると、当時の島原青楼に

揚屋町  長松楼 中川徳右衛門
      柴籐楼 高村新七
      万春楼 長谷津弥
      橘仙楼 杉はる
      向栄楼 林芳太郎
      翠?楼 杉岡金之助
中之町  養花楼 高橋源之助
下之町  桔梗楼 安井て衣
上之町  旭楼  上村志な
中堂寺町 松緑楼 小林志な
太夫町  大井楼 井上源七

『京の花街「輪違屋」物語』高橋利樹著には、輪違屋は明治五年当時「養花楼」と名乗っていたとあります。これで行くと長松楼=角屋になり、桔梗楼は桔梗屋な可能性が強いようです。江戸期、島原の揚屋も置屋も~屋だったのがすべて~楼に変わり、その後再び角屋、輪違屋に戻ったのは、何らかの力学が働いたものと思います。

明治十四年『都の花競』大西亀太郎に載る島原太夫を『売買ひとり案内』の町順に合わせ並べてみます。

揚屋町  若鶴太夫 十九年三月
      若紫太夫 十七年二月
      若緑太夫 二十三年五月
      立花太夫 二十年一月
      初紫太夫 二十二年十一月
      松人太夫 十四年
      光扇太夫 十七年
      花紫太夫 十六年一月

中之町  薄雲太夫 二十年六月
      雛?太夫 十八年九月
      色雲太夫 十九年六月
      松扇太夫 二十年九月

下之町  降?太夫 二十八年十一月
      光人太夫 十七年三月

上之町  なし

中堂寺町 初扇太夫 二十五年三月
       東雲太夫 十六年
       末廣太夫 二十六年七月

太夫町  総角太夫 二十年

その他太夫町に里花、花積、高松と太夫の称号が附かない三人が登録されています。総じて若年の太夫が多く見受けられます。一番年嵩でも二十八歳と当時の様子を伝えています。その他芸妓は中之町、中堂寺町、下之町に十七人紹介されています。

明治に入り、島原は衰退します。その打開策の一つとして明治十九年、嶋原は祇園新地に三軒支店を出し太夫を置きます。その内一軒は末吉町の小林で、まもなく小林以外の二軒は廃業したものの、明治二十七年に三景楼というのが出来ています。この顛末は後日祇園ぞめきに場所を移して説明を試みます。

これは前回紹介した、島原が祇園で仮宅を持った際、味を占めた業者が島原に戻ってからも虎視眈々と祇園再進出を狙っていたのかも知れません。

少々畑違いになるものの、『ホトトギス』昭和三年八月号で、高浜虚子が島原太夫道中再訪の際、過去の思い出でとして学生時代に訪れた島原の元気の無い様子を書いています。

「私は嘗て一度此の太夫の道中を見た事がある。其は明治二十六年の事で、高等学校の帽子を被って居る時であった。先ず壬生寺に壬生念仏を見に行って、其時島原に太夫の道中の事を聞いたので、帰りに立ち寄って見た。詳しい事は覚えていないが、なんでも私は菜の花の咲いている道傍の埒のところで見たように覚えている。其時分は此島原もさびれていて、すぐ裏は蛙の鳴いている田甫であったように記憶している。道中を見るのにも壬生寺からとぼとぼと田舎道を散歩して来て、其儘道傍に佇んで見たやうに記憶している。見物人も余り大勢で無く、何だか淋しいものであったやうに記憶している。」

丁度この頃が底で、明治二十七年の日清戦争あたりから島原も息を吹き返します。



by gionchoubu | 2016-06-08 14:06 | 島原遊郭 | Comments(11)
Commented by 今紫 at 2016-06-26 19:19 x
前回にも書きましたが西門は復元していただきます(自転車、車イス、電動カート以外の自動車は通行止め)! また、町並みも幕末から明治、大正、昭和初期の姿にしていただくこと(但し、娼妓屋=性風俗店は要りまへん)です。

明治初期の嶋原は大変でしたね。それから娼妓屋を中心にした遊廓として売春防止法施行まで続くことになるのですね。

明治における嶋原の再建は加藤雅洋氏の著書で読んだことがあります。今の嶋原が新たな姿で登場するに参考?になるでしょう。
Commented by kayohosoda99 at 2016-06-27 03:37
東映・廓育ち
写真2点
西門

http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/WS000028_R_20110220110747.jpg

http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/WS000647_R.jpg
Commented by kayohosoda99 at 2016-06-27 03:44
高架になる前の、国鉄の丹波口駅は七条通に面していたと記憶しています。

http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/WS000699_R.jpg
Commented by gionchoubu at 2016-06-27 16:15
> 今紫さん

西門が某大手宅配業者のトラックで破壊されたので、その某業者が全額負担すると、大きなニュースにもなり、社会貢献にもなりよろしいかと思います。

加藤先生(政洋先生ですね)は『月刊京都』2014、12月号にその件で寄稿されていますね・
Commented by gionchoubu at 2016-06-27 16:20
> kayohosoda99さん

西門の住吉神社側の敷石が残っているように思います。こんど画像に載せます。輪禍後の柱だけの画像もあるのですが、50年たっておらず、著作権で公開できません。
Commented by gionchoubu at 2016-06-27 16:25
> kayohosoda99さん

まさに島原の政治力で、廓内の土地を提供しました。現在の公園がその跡です。大門にも「島原ステーション→」の様な表札がある絵葉書を所有しています。
Commented by 今紫 at 2016-06-28 20:50 x
>ぞめき様
>西門が某大手宅配業者のトラックで破壊されたので、その某業者が全額負担すると、大きなニュースにもなり、社会貢献にもなりよろしいかと思います。

ありがとうございます。そうしていただくと嬉しいです。
Commented by 花月 at 2022-05-27 02:02 x
初めまして、角屋の建築について調べている者です。
これ程の情報量のブログがあったとは梅雨知らず、今更ながらその量に圧倒されております。
不躾ながら小生が調査している事について、もしご存知であればご教示を頂きたく宜しくお願い致します。
昭和4年に書かれた「傾城町と角屋の実測」と言う早稲田大学建築学科の卒業論文に角屋の表構えの駒寄せにペンキが塗られた跡がわずかに残っており、
明治初期の西洋文化心酔時代の悪趣味で不調和という様な事が書かれているのですが、この駒寄せのペンキの色を調べております。
角屋の中川理事長様にも伺いましたが、解らないとの回答でした。
これまで調べた結果としては、風俗研究家の江馬勉氏が角屋の看板行灯について浅黄色のペンキで塗られた跡があるとの記述をされている為、
色は絞られたのですが、浅黄色は昔から浅葱色と混同して使われていた歴史があり、浅黄(あさき)なのか浅葱(あさぎ)なのか解明できずにおります。
手掛かりになる様な彩色のある絵葉書もくまなく調べたのですが、肝心の角屋の駒寄や看板行灯が映っている絵葉書は残念あがら彩色されている物が見当たりません。
Commented by gionchoubu at 2022-05-27 23:52
> 花月さん
コメント有難うございます、駒寄のペンキ、全くの初耳です。角屋さんは『角屋研究』など素晴らしい研究者の方々が実績を残されて、私が何か言うのもおこがましいのですが、浅葱、即ち田舎侍の遊郭通いなどを揶揄する川柳が結構あり、これを風俗研究家の江馬勉が知らない筈がなく、即ち浅葱と麻黄を混同するとは考えにくいと思いました。
さらに絵葉書の手採色があったとしても大正以降だと思いますし、有ったとしても可なり風化しているのでは、とも思いますし、第一、私自身手採色は間違った情報を流しやすいと考えているので、言葉の浅黄色の方が重いと考えました・・・聞き流してくださいね。
Commented by 花月 at 2022-06-04 13:14 x
ぞめき様
お返事ありがとう御座います。
明治時代初期の擬洋風建築は淡い青緑色(浅葱色)のペンキを施されているものが多く、角屋もこれに習ったのかと推測しておりましたが、
京都嶋原(京名勝百景之内)という手彩色の絵葉書で今の誠の湯辺りから大門方面を撮影したものがあるのですが、
中堂寺町辺りの店先の駒寄せや欄干が淡い黄色(浅黄色)で手彩色されている事で、どちらの可能性もあると思う様になりました。
確かに手彩色の絵葉書や写真を見ると、おかしな色で彩色されたものがあるので信憑性はないのですが、一応一つの資料にしました。
早稲田大学の論文には、角屋の駒寄せは何度か交換されていて、明治時代の駒寄せの破片が角屋に残されている様な事が書かれておりまして、
この破片が今でも残されていれば解決するとは思うのですが、角屋の理事長様がこの程度の調査に応じてくれる可能性は低く、
他の資料を探している所です。


Commented by gionchoubu at 2022-06-07 15:53
> 花月さん
私も気を付けておきますね。