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島原遊郭ぞめき 仮宅

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『島原仮宅名寄一覧』『嶋原假宅細見記全一冊』天保七年申三月改を見ていきます。今まで私としては見たことが無かった資料(複製)を一昨日偶然頂きましたので、幕末から天保まで少し針を戻します。

置屋の太夫、天進、芸妓を見てみると、

桔梗屋に太夫十人、天進六人、芸妓二十一人
輪違屋に太夫十人、天進五人、芸妓十八人
亀屋に太夫八人、天進四人
ゑび屋に太夫五人、天進六人

嶋原に太夫に次ぐ天神、天進、転進の位があった時代、位の高い太夫の方の人数が天神に対して少ないのが常です。この逆転現象は嶋原が復興中で営業政策上、仮宅の場では太夫を多く置き、客単価を上げる必要があったのかもしれません。

仮宅は吉原が本場で、火事で遊廓の建物が焼失した場合、復興まで他所での仮営業が認められた事をさします。吉原では江戸期の250年の間36回火事があり、全焼が二十一回、吉原自身が火元になったのが二十一回で、その内十三回は遊女の手によるものだったと『図解吉原遊廓花魁の秘密』小菅宏著にあります。

これだけ吉原の遊女による放火が多かった一番の原因として、依然述べた江戸では遊女が一夜同時に数人の客をとらされた事を挙げたいと思います。

この廻し制度がいかに吉原遊女の精神に悪影響を与えたかの結果がこの遊女による放火なのでしょう。なぜなら島原には一切この廻しがなく、この廻し制自体は犯罪と捕らえられていた筈です。

さて、『吉原と島原』小野武雄著によると、吉原の仮宅は、本所、深川、浅草、両国など、吉原からあまり遠くなく、繁華街に近い場所が選ばれ、料理茶屋、寮、妾宅、民家などが借りられ、楼主が申し入れ許可をとり営業するのが多かったとあります。

そして以外にもこの仮宅は繁盛したようです。その理由を本書は八の理由を挙げていますので要約すると

1、 気楽に遊べる。
2、 安上がりである。
3、 便利な場所にある。
4、 気楽なので商店、お店者が客になった。
5、 職人の収入が上がり余裕ができた。
6、 もの珍しさがあった。
7、 遊女も自由に振舞えた。
8、 吉原常連にも新味を与えた。

安くて、便利で、気楽で、もの珍しければ、さぞ江戸っ子には受けたでしょう。

島原の仮宅は天保元年(1830)七月の大地震で、島原の揚屋も置屋も大損害を受けたもので、遊女の放火ではありません。そしてその修復中、下河原、祇園、上弁天町などの六ヶ町の茶屋が仮宅に選ばれました。

しかし、それにしても天保七年も仮宅のままなのは長すぎるような気がします。祇園などに太夫がおり、気楽に遊べるとなれば、今まで島原に縁遠い人々も多く通ったので、島原の業者も色々理由をつけて戻りたがら無かった様な気がしてなりません。



by gionchoubu | 2016-06-03 11:21 | 島原遊郭 | Comments(4)
Commented by こうざん at 2019-07-13 22:39 x
近江八幡旧花街に江戸から昭和まで在住、花街最大の芸舞妓40数名抱えた大茶屋江戸からの遺物を保管。幕末からの古写真の中に、太夫、芸舞妓多数、中でも太夫は硝子乾板の原画が残り、その中に貴ブログにも出ている明治の島原斎藤楼金太夫と思われる古写真。
 江戸時代、京都島原、大阪新町と拮抗したといわれる近江商人の富豪の街、八幡花街。京都島原とどんなつながりがあったのだろう。
Commented by gionchoubu at 2019-07-14 10:49
> こうざんさん

コメントありがとうございます。
当時の水運の街の繁栄は我々の想像をはるかに超えるものだったでしょう。中でも佐渡や瀬戸内海の海港には富も文化も集中しました。
近江八幡の花街の繁栄は天保にねりものを行ったことでも明らかです。これは花街文化と富が成熟しないと現れ得ないもので、日本でも数か所しか確認できていません。祇園か新町か島原との強い結び付きが想像されます。

素晴らしい資料をお持ちですね。古写真の太夫さん、赤襟を返しているでしょうか?
非常に興味があります。
Commented by こうざん at 2019-07-14 12:28 x
早速お読みいただき有難うございます。まず不勉強で書かれた言葉が分かりません。「ねりものを行った」?「赤襟を返している」?後者は太夫古写真が白黒で色はわかりませんが、一番肌に近い右襟が黒く見え、赤襟が予想されます。大きく引き伸ばすと複数の写真がみな同じですからこのことが赤襟を返すというのですか?私が遺物保管している「大高楼」は江戸中期から続く古楼で幕末「大高楼」明治「京初楼」大正「京春楼」昭和「金鷹楼」「名月荘」と女将が変わり、明治維新にかかわった志士たちが来楼したことが、遺物の多くが維新関係者のもので、京都に店を多く持つ近江商人の当町がバックアップしていたことが想像されます。又祇園とのかかわりは強く、昭和初め発行の「八幡町史」には「大高楼」の芸舞妓は京都祇園の妓しか採用せず2流の先斗町などからは採用しなかったと書かれている。古写真の芸舞妓は今の祇園の芸舞妓に劣らない容姿でうなづける。残る「大高楼」見受け書には京都出身者、明治初めで140円と高額、「大高楼」だけで四十人の名妓を抱え八幡花街では100人いたといわれる。7000人位の小都市でこれだけの花街を支えた旦那衆たちがいたことは、江戸時代日本橋の8割を占めた近江商人の財力が幕末明治の時代続いていたことが想像される。
最後になりましたが、平成のはじめ自宅火災で地区00年の家を失い何もなくなった中で八幡花街遺物の数%をどなたかが持ち出していただいたのも何かのご縁と後世にどう伝えるのか、貴ブログを通じて皆様のお知恵を拝借いたしたくお願い申し上げます。 合掌
Commented by gionchoubu at 2019-07-14 16:34
> こうざんさん

説明不足でごめんなさい。

江戸の花魁は返しませんが、島原の太夫は今でも片襟を返し赤襟を強調しています。(白黒写真では黒になります。)ただこれがいつ頃からの風習かわかりません、江戸期の太夫図は襟を返してないので、私は明治ぐらいからのものだと考えています。幕末や明治の時代考証がされているなら大変貴重な資料といえます。

なぜ赤襟を見せているかは、禁色の赤を身に着けている島原太夫は官位があり御所に入れる身であることを暗示しているとされています。

ねりものは江戸期が盛んで祇園(昭和35年)まで、大阪の新町は戦前まで催しており、一言でゆうと豪華絢爛な芸妓の仮装行列です。私も50回ほどこのblogで書いていますので、ご興味があればご覧ください。(カテゴリーの祇園ねりものの所)また、近江八幡池田町の遊郭に関しても滋賀の亡くなった遊郭の所で三回ほど書いています。

さてこうざんさんの資料は市役所から地元の教育委員に相談されるのが一つ、ただ教育委員がその価値を認識されているかがポイントです。

もう一つはやはり地元の新聞社と連絡をとって掲載してもらうのがいいでしょう。各新聞社には花街担当がいるはずです。これもその担当さんが重要性を認識できるかがカギです。

公開されたらお知らせ頂けると幸いです。弊blogでも告知させていただきます。