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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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島原遊郭ぞめき 勤皇の志士

島原遊郭ぞめき 勤皇の志士_f0347663_11140279.jpg
                      祇園、一力前

幕末にかけての幕府の花街、遊廓に対する度重なる弾圧と緩和政策に、島原以外のお茶屋も置屋も、そして芸妓も娼妓も幕府に対する怨嗟が渦巻いていたと見るのが自然だと思います。

洛東の花街の芸妓が概ね勤皇方に肩入れしたのは、例えば祇園などの磨き上げられた花街が、新撰組の粗暴な性質を全般として受け入れられ難かったという面もあるでしょうが、幕府を後ろ盾にした出先機関の連中に気を許す道理が無かったからでしょう。

芹沢鴨は水戸藩士ではあったものの、近藤勇も土方歳三も農家の出で、新撰組の隊員に藩士も多く含まれましたが、同じ位食い扶持を求めて参加した浪人も参じており、原点が粗野で、剣も例えば天然理念流という、勝てれば何をしてもいいという流派の者がいたり、隊員の中で衆道が流行ったり、遊ぶ金も豪商に無心して得たものだったり、幕府の手先である新撰組は、芸妓は勿論、娼妓にとっても、積極的に肩入れする要素は見当たりません。

さて、今の動物園あたりには多くの京屋敷がありましたが、そこから祇園までは散歩がてらに通えますが、島原までは10キロほども有りましょうか、ちょっとした旅行になります。これらの京屋敷の役人が、大阪の北新地や新町、島之内で盛んに催された蔵屋敷の「お振舞の宴」のような宴席を持つ場合、京都では島原で、という分けにはなかなか行かなかったと思います。角屋では厨房設備も整い大宴会も行われましたが、矢張りこの距離は憂鬱です。

京の場合、こういった大きな宴会は左阿弥、也阿弥の様な六阿弥を代表とする寺の屋敷が席貸を営み、こういった需要に応えただろうし、一力、井筒、扇九などの大茶屋も利用されたことでしょう。祇園周辺にはこういった座敷や料理人、接待役が揃っているのです。

次に維新の功績があった三藩と遊里の関係をごく簡単にみていきますと、土佐藩邸の目の前が先斗町。長州藩は北に行けば、実際桂小五郎が幾松と浮名を流した東三本木、南へ行けば矢張り先斗町、祇園、宮川町が控えています。

真偽の程は解かりませんが、当時先斗町にあった五十以上の路地に、一番路地、二番路地などの番号を便宜上つけたのも長州藩士といわれています。(今の路地番と違い四条側から一番、二番とつけられていました。)

薩摩藩は同志社のキャンパスあたりで、洛東の花街まで少しく距離はありますものの、島原に較べればたいした距離ではありません。

幕末、特に祇園と勤皇の志士たちの固い絆も、共通の敵は幕府という接点があったのです。祇園の芸妓にとって島原は支配を受ける側、島原は当然幕府の息がかかった傾城町です。勤皇方も当初は島原で心を開く者はいなかったと思います。勤皇方が洛東を拠点にしたのは、以上のような背景もあったと見てとれます。

徳川幕府は外様大名を仮想敵国に想定し対策を組みました。その中でも西国の旧豊臣勢力は敵国そのもとして備えました。

徳川幕府は歌舞が人心を乱し、それが堕落となり、磐石の体制に楔を打ち込み、やがて崩壊に繋がると本能的に感じ取り、歌舞の形骸化に努めました。

徳川幕府は少しの公許の遊廓を認めるも、全国にあった非公許の遊廓を忌み嫌い、特に天保の遊所整理では弾圧によりこれを消し去りました。


幕府が設立当初抱いた危惧はすべて的を得たものと言わざるを得ません。

徳川を大政奉還に追い込んだのは、旧豊臣勢力と、それを命がけで支えた、遊廓を母体に花街に昇華し、歌舞を身に付けた芸妓連だったのです。



by gionchoubu | 2016-05-28 11:17 | 島原遊郭 | Comments(0)