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by gionchoubu
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島原遊郭ぞめき 天明の大火

寛政二年(1790)六月には、島原による請願が功をそうし、所司代、太田備中守資愛は、両町奉行から捕史数百名を出し、市中の大々的な隠売女狩を行い、千三百名を捕らえ、島原に婢として送り込まれました。
今回は祇園だろうがどこだろうが、全ての茶立女名義で差し置かれた、茶屋一軒につき一人の茶屋娘以外は全部検挙です。
この時より幕府の遊里統制は幕末まで迷走を続け、一貫性の無い行き当たりばったりと云っていい政策は政権交代まで続きます。
この年十一月、大取締りの僅か五ヶ月で当然、祇園、二条新地、北野七軒、七条新地に五ヶ年の年期をもって正式に公許の遊廓としてこの四箇所を認め、島原には口銭を納めさせ、営業を許したのです。
これは取り締まわれた茶屋街の陳情により実現したのも事実でしょうが、島原とて、茶屋街より総額銀十五貫目を得たところで、あの狭い区域に収容限度を遥かに超えた女を送り込まれても、それだけの客があるわけでも無し、女に食事や寝る場所も与えねばならず、随分困ったはずです。島原は非合法売女の収容所の為に誂えられた訳ではありません。
この寛政二年に四か所の遊所が公許になる二年前、京都では天明の大火があり、京都の市街の八割を焼き尽くしました。当然京都の財政は逼迫しており、大取り締まりの後の当局の豹変には財政が二進も三進も行かなかったのが大きな要因だと私は考えます。
その後、京都も繁栄を遂げ、文化・文政・天保にかけ、京都の遊廓は大繁盛、祇園などで芸妓の台頭が顕著になり全盛期を迎えたのです。
しかし又もや突然、青天の霹靂、日本全国に天保の改革の嵐が吹き荒れました。天保十三年(1842)遊所整理が下されました。江戸では吉原、品川、新宿、千住、板橋、小塚原以外の二十三箇所の非合法遊里が所払い、四千百八十一人の売女は、正業に就くか吉原に行くかの選択を迫られました。
京都では所司代牧野備前守により、折角公許になった遊廓も、六ヶ月以内に業者は他の商売に変えるか、島原に転移を命ぜられ、希望業者は千三十九軒、実際に移ったのは百三十九軒、遊女芸者合わせて五百三十三人でした。
幕府はここで最後の迷走に入ります。天保の遊所整理の八年後の嘉永四年(1851)
所司代脇坂淡路守安宅はまたもや祇園町同新地、二条新地、七条新地の四箇所に制限つきで再び、島原に口銭を払う条件付で遊廓渡世を復活させました。
安政六年(1680)先斗町、五番町、宮川町、五条橋下も公認、慶応三年(1867)所司代松平越中守定敬は従来の期限付許可を外し、上納金を納める事で無制限許可・・・まさに幕府の方針は迷走に継ぐ迷走としか言い様がありません。
このすこし前、安政元年(=寛永七年)四月六日に京都は御所を含む五千軒を焼く大火(寛永七年の大火)があり、こちらも財政悪化が安政六年の遊所許可の動機の一つと私はみています。
島原もたまたま同じ年、安政元年八月に揚屋町と下之町の一部以外全焼、輪違屋は焼け、角屋は免れました。現在輪違屋はこの時の火事の後再建されました。
ちなみに、京の花街「輪違屋物語」では大火を安政三年で再建を安政四年としています。(京都島原文学碑めぐり、島原伝統保存会発行も安政四年。)
安政四年は間違ないと思いますので、大火後約三年後に再建という事になるのでしょう。
大火と京都の遊里統制はもう少し考えて見る必要があるかもしれません。
参照:日本花街史、明田鉄男著
by gionchoubu
| 2016-05-25 11:57
| 島原遊郭
|
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