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島原遊郭 茶屋の総年寄

島原遊郭 茶屋の総年寄_f0347663_11314926.jpg

寛政二年(1790),祇園、二条、七条、北野に公許で遊女渡世が認められるまでの時代を考えると、島原だけの遊廓だけでは、とても旅客を含む京都の遊客の欲求を満たせるだけの遊女の数ではなかったはずです。

島原の最盛期頃、元禄十三年でも、大夫、天神を省く鹿恋と端女郎併せて289人、時代は変わりますが、大正元年には公許の遊女、即ち娼妓だけで2463人おりました。これには非合法の女は含まれておりませんので、島原の規模では物理的にとても需要を満たすことは出来なかったと思います。

六条三筋から江戸期に於いての京都の遊廓史の大部分は、公許の傾城町と非合法の遊女体の取締りのそれでした。明田鉄男著『日本花街史』を見ると、遊女の取り締まりは数多くあれども、業者六人が死罪になったのは貞享二年(1685)東石垣町の取り締まりのみで、この時も遊女は元親にかえされています。

この売女として捕らえられた女は、せいぜい島原に強制的に送られるぐらいで、たいした罪に問われなかった様です。万一捕らえられても大きな刑罰は受けずに済む・・・という気分が蔓延していたなら、馬琴の言う「洛中半ばこれ妓院」といった状況も生まれ易かったと推察されます。

ちなみに、この事件の引き金となったと思われる所業が『武野燭談』に見えます、即ち「石垣茶屋、河原を見おろし、がけ造りにして、四壁金襴緞子にて張、床をば畳をやめて天鷲絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止せらる」貞享元年の前年が天和三年ですので、上記の死罪はこの幕府を怖れぬ所業に対する結果と考えられます。傾城町以外の遊女渡世、豪奢な建物、珍膳珍味、当然女も華麗な衣装を用いていたはずでので、さすがに厳罰が下ったものと思われます。

島原は風俗取締りの名目で、唯一の傾城町として僻地に追い遣られたわけです。ところが祇園などが立地の良さを武器に非合法遊里を営み、上客を取り込むのは筋が通りません。

窮余の策として編み出されたのが、島原を各所の廓の茶屋の総年寄にする、というものでした。これは名案でした。島原はこれである程度の金を納めさせたでしょうし、プライドも立ちます。各非合法の廓も茶屋女名目で女を置ける、奉行は島原を宥めつつ、遊女の数を確保する。二条城南西にあった東西奉行所の与力や同心なんかも、近くの五番町、四番町辺りで羽を伸ばしていたかもしれません。

その後も何度も、何度も取り締まりは行われました。しかしながら隠売女はなくなりません。なにより、これでも遊女の絶対数が足りない分けですから。明和七年(1770)の取締りで多くの私娼が捕らえられて、島原に送りこまれています。これは宝暦以降、茶屋名目で、島原に口銭を納める半公認の二条新地、祇園、上七軒、七条新地はこの網にかからずに済んだのだと思います。

この辺りの時代まで、所司代側としても、公認ではない遊所であっても、余り派手な営業をしなければ黙認、という一応それなりの一貫性はありました。



by gionchoubu | 2016-05-22 11:34 | 島原遊郭 | Comments(0)