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祇園の太鼓持ち その二

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                  繁太夫が旧交を温めたお茶屋、富美代さん

武芸者、役者、忍者、江戸時代以前~者というのは男の生業を表し、女性がこれに当たる場合女武芸者、女役者、女忍者とわざわざ女をつける・・・とどこかで読んだことがあります。

『守貞謾稿』にも太鼓持の見出しがあります。“幇間・牽頭の字を中つ。けだし京坂の俗言には「たひこもち」、また芸者、また「やっこ」とも云ふなり。江戸にて芸者と云ふは、大略女芸者のことなり。幇間は必ず男芸者あるひは太夫とも云ふなり。京坂にて芸者とのみ云はば幇間なり。女芸妓は芸子と云ふなり。また京坂には野幇間(のだいこ)と称することこれなし。しかれども、その業をなす者は往々これあり。有実無名なり。”

江戸深川仲町在住の富本繁太夫が『筆満可勢』(ふでまかせ)で天保六(1835)年から天保七年にかけての約二年滞在、「是非なくここへ太鼓持に出勤」「芸者 甚吉弟子 富本繁太夫」として都での幇間暮らしをこと細やかに日記に綴っております。

天保六年正月二日、彼は祇園で芸妓のように差紙を各楽屋に廻って店出ししました。差紙とは芸名、所属の見世などを記した紙で、お披露目の為配布するものです。どうもこの店出しの際、繁太夫の師匠である甚吉と紅八という男が口論となり、せっかくの目出度い席が台無しになった様で波乱のデビューになりました。

この時期、大鶴屋以外に鳥羽屋、花扇屋という見世があった事が分かります。

繁太夫は「江戸豊後節」を看板にしましたが「最初の内は評判よしと思ひしに大きな違い、此いやみなるを笑ふて楽しむなり~略~皆々笑ふ事を手柄と致す。誠にくやしく腹は立ども是太鼓持の苦界なり。花芸者なれば笑るるをよしとなせども、特芸の豊後節にて笑るる事残念至極なり。」とその胸中を吐露しています。

幇間の仕事は、色んな行事にも携ったようで、たとえば正月七日「此の日太鼓持思ひ思ひに俄を致し出る~略~此夜甚吉、天平、鶴助、与三八、染八、友吉、我右七人連にて、嘘と誠の二タ瀬川といへる流行歌を謡うて」茶屋を巡りお花を頂いて廻りました。俄という寸劇も幇間の得意とする芸で、至るところで掛けていました。

その他にも、地築に際し、櫓の上で音頭をとってキヤリを唄って囃したり、時にはお大尽と呼ばれる金持ちの道楽に芸妓とともに散財に付き合ったりしています。この年八月二十八日に

「此日岸本や亭主利八同道して白水といへる茶屋江五条松様と言客人にて行く。芸子大勢、太鼓持三軒見世不残出て居る。此節券流行也。此客人太鼓持隙成時分といへば、出て来りて金を五十両七十両位持切来り。居続して三軒見せの者不残呼集る。座敷繁多の頃は不来。江戸にも余り多からぬ客人也。○○岸本や、五条松様。」の下りがあります。

この少し前、八月一日「此日風邪にて臥居たるに縄手富美代より返有る。押して行し所、江戸登の客人なり。見し所高村甚座衛門なり。誠に久々、互ひに落涙し暫く挨拶なし。」といった事もありました。

繁太夫は天保六年と天保七年の祇園ねりもの(祇園祭りの夜催された遊女、芸妓による仮装行列)の番付を載せています。文政年間より後囃子をこの祇園の幇達が担当するようになり、この歴史的ページェントの最後列で幇間達もその一翼を飾ったのです。

太鼓持ち、男芸者など、今でも決していい意味で用いられる事のない幇間達にとって練物に参加できるなど、一生一度の晴れ舞台だったに違いありません。

当時、このねり物の番付けは出演者の絵入りで合羽摺りでパンプレットの様に流通しました。練り子は勿論、前囃子の芸妓達も絵で紹介されています。ただし表舞台とは程遠い幇間たちは名前だけが載りその姿が入る事はありませんでした。

私の知るかぎり、一人だけ顔だけひょこっと描かれた幇間がいましたが、之を描いた長秀の遊び心に過ぎませんでした。。


by gionchoubu | 2015-12-30 11:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)