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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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上七軒ぞめき その五

上七軒ぞめき その五_f0347663_11543420.jpg
                ずいき祭にて、五つのつなぎ団子×2の紋章も見えます。

文化十年(1813)上七軒にも芸者取り扱いが許可されます。ただしそれ以前にも上七軒に芸者がいたのはその三で述べたように明白です。江戸期の上七軒は一般に北野七軒の呼称で呼ばれたのが『諸国遊所競』という相撲番付に模した、日本全国の遊里の序列で分かります。しかし花街としての地位はまだそれほど高くなく、宮川町、五番町の下位に甘んじています。

同じ文化十年、北野の業者が茶屋株貸受名目で、五条橋下の平居町で茶屋を開くのですが。この様にに今後も含め、二条新地、五条新地、五番町に再三進出するのは、この頃になると、都の賑わいは祇園を中心とした鴨川沿いに集中したのが大きな要因と推察されます。

天保十三年(1842)、幕府の方針で、古来免許された以外の歌舞歓楽街が厳禁となり、京都は島原、伏見の撞木町、中書島の遊廓以外総ての遊女、芸者は辞めるか、島原へ移るかの厳命を下されます。

撞木町や中書島が残されるなら、上七軒も、と思うのですが、お上の認識では上七軒が公許の遊郭となったのは、祇園、二条新地、七条新地と同じ寛政二年であり、それまでは茶屋株を所有していた非合法の遊所だったと云う事かもしれません。

その後すぐ、嘉永元年(1848)より遊所に対して緩和策が取られ始め、上七軒を始め京都の遊廓は徐々に復活、なし崩しに明冶を迎える事になりました。嘉永五年には、上七軒が今出川の南にあった下之森の遊所を吸収する形になりましたが、明冶が終わると下之森遊廓も消滅しました。

この間、嘉永四年や安政三年、遊女商売を期限付きで許可されたり、人数を制限されたり、上七軒も京都の他廓同様、お上の方針が定まらないため随分振り回された様です。又、安政六年、北野上七軒より、下之森の東の五番町へも遊女屋茶屋を出店として許されてもおり、天保十三年から明冶三年に到る二十八年間、茶屋の人は気の休まる時が無かったはずです。

慶応三年の『四方の花』に上七軒の項があり、ねりものを出した淀屋に芸子十八人、遊女十六人、大津屋に芸子五十二人、遊女四十人の名前が載ります。

明冶になり、上七軒は、京都の他廓同様島原の支配下を離れます。茶屋の鑑札も府から直接下附されました。

明冶五年、京都博覧会の附博覧として、祇園が都踊、先斗町の鴨川踊、宮川町には宮川踊(ただし宮川踊は実際行なわれたか不明)、下河原にも東山踊が花を添えましたが、上七軒はその波にも乗ることなく、超然と独自の道を歩む感がありました。


by gionchoubu | 2015-08-14 11:58 | 上七軒 | Comments(0)