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上七軒ぞめき その三

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                    上七軒の舞妓さん、梅花祭

馬琴が『羇旅漫録』で「京にて島原の外御免の遊女町は五条坂、北野、内野なり。」と書いている様に、寛政二年(1790)祇園などが公認の遊廓となる前、五条坂、北野、内野は公許の遊里という認識が巷ではあったことになります。五条坂は別名あこや株(清水新地)で、元和五年、所司代板倉勝重により、門前に茶屋女つきの茶屋渡世を許されていますし、北野は上七軒の事で、そのあと板倉周防守(重宗)によって御免(公許)と見なされました。内野は五番町でなく、下之森の遊所のはすです。

その後の歴史を辿って見ると、二条新地の項でも書きましたが、享保二年(1734)上七軒吉祥寺より、上七軒出店の名義で遊女屋が引っ越して新先斗町、大文字町で渡世を始めました。『京都坊目誌』によれば、この吉祥寺は維新の時に廃寺になっています。

宝暦十一年(1761)島原が各所の廓の茶屋の総年寄を命じられ、上七軒も島原の支配を受けます。これはその後明冶三年まで続き、上七軒が島原から<壽>の字を貰い、廓や出店の印として用いるようになりました。

『京都遊廓由緒』によれば、上七軒は、宝暦十一年(1761)十二月、上七軒の真盛町より茶屋株を借り受けた業者が五条橋下の南京極町で営業を始めております。

この辺りの事情は、寛政元年(1789)上七軒、この真盛町年寄が松梅院に提出した『就御尋口上書』に詳しく、真盛町には茶屋株九軒所有していたが、だんだん商売が振るわなくなり、九株の内八株が休株となり、この八株の内四株を五条橋下に貸付ました。その後株を真盛町に戻し、九株の内六軒が営業、三軒は再び休株になったとあります。(日本花街史収録)

松梅院は徳松院と妙蔵院と合わせ北野天満宮の三家の宮司の一家で鳥居前町北方にありました。

その後、寛政二年末かその直後、即ち祇園、二条新地、七条新地と共に上七軒も遊廓公認のすぐ後に(このあたりの説明は私では役不足で、公認であった上七軒が再公認となったと書くしか能がありません。)上七軒の寿仲間によって、二十一項目に及ぶ取り決めが有りました。(『北野会館所蔵文書』、日本花街史収録)

それには、一、すき髪、襟之かかり候着類、並ニ、半天之姿ニ而、花ニ参り候義ハ可為無用事、など中学校の生徒手帳に書いてありそうな規制や、芸妓が島原に差し出す口銭の期日、一、御目印町行燈、毎夜子之刻迄ともし置可申事、一、遊女芸者、常々御客様之善悪之取沙汰は決而致間敷候・・・今でも通じそうな風俗営業当事者としての自主規制や接客者の心得なども書かれています。
そして一、市中之中宿へ、為一夜とも泊り申間敷候事。

外泊禁止、客の噂話禁止、服装頭髪規制など、大変厳しくも感じられますが、
文面のみで判断するのは危険だというのがこのブログ全体の私の立場です。

現在の中高の学生手帳のみで100年後に今の学生気質を語ることが出来ないのと同じ・・・アカデミックなアプローチは第一義、心から敬意を払っているのは私とて同じですが、すこし違った角度から物事を感じ取れたら別の姿が見えるかもしれません。


by gionchoubu | 2015-08-09 12:17 | 上七軒 | Comments(0)