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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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上七軒ぞめき その一

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上七軒ぞめき その一_f0347663_16202301.jpg
『京都府下遊廓由緒』は明冶五年に、京都府の求めに応じ、府下の遊廓がそれぞれの沿革と区域を明らかにしたもので、これに拠ると、上七軒は「足利氏武将の頃、北野社造営のみぎり、七軒茶屋も、残木を以って造作に相成り候」と、その起源を自ら述べています。

この七軒の茶屋は、遊里とは関係の無い、いわゆる水茶屋と見るべきで、北野天満宮にお詣りする善男善女の求めに応じ、麁茶(そちゃ)などを出していたものと思われます。

『守貞謾稿』に「茶見世、京師は四条河原、祇園社頭、北野社頭、清水寺、右等に在るもの皆小屋掛のもの也。俗に掛茶屋と云」この四箇所のすべてが遊里と密接な関係を持ったのは偶然でなく、当局が水茶屋だと安心していると、いつの間にか茶点女が遊女化してしまうのは、世の倣いとしかいいようがありません。

上記の中で祇園、北野、清水の遊郭は世に知られておりますが、江戸の始め徳川秀忠の時代、二条柳町遊所設立や遊女歌舞伎の主催者として名高い林又一郎も四条河原町で、非合法の傾城屋(遊女屋)を営んでいたため、公許の同業者から告発されています。

「其後、豊臣太閤秀吉、北野馬場へ遊覧の節、七軒茶屋休所に相成、土地の名産、御手洗団子差出」これは天正十五年(1587)秀吉が催した北野大茶会の際、御手洗団子を饗した処、これが秀吉に大いに褒められ、山城の国で法会場所に店を出していいという免許をもらいました。この特権が江戸時代になり、板倉周防守所司代の時茶屋株も免許されました。茶屋株が与えられるという事は、茶屋女を置けることになり、これが茶汲み女や茶点て女として遊女渡世をしたことになります。

この茶会の準備のため、秀吉は再三下見に参ったのですが、その中で、上七軒の近く、浄土院(今出川千本西入)に名水の有ることを聞き及んだ秀吉は一度この寺を訪れています。

いきなり時の関白が気さくに寺に入ってきたので、住職も驚いたでしょう。

秀吉は座敷に通されると早速、「茶を所望する」といいました。

秀吉が茶人であることを知っていた住職は、まずい茶をだして機嫌を損ねたらよろしくないと、自慢の水を白湯のまま出しました。

秀吉は一応口にしましたが、首を傾げもう一度「いや、白湯ではない、茶を所望したのだ。」と諭すようにいいました。

住職は冷や汗を書きながら畏まりながらも、もう一度白湯を出しました。

“ははーん、この住職はまずい茶をワシに出すくらいなら、自慢の白湯を出して、味わってもらいたいのだ。”

こういった茶目っ気は嫌いでない秀吉、破顔一笑、「分かった。お湯ばかり沢山飲ませよって、これからはこの寺は『湯沢山茶くれん寺』とせよ。」と言って上機嫌で寺を後にしました。

これが信長なら住職の首は飛んでいたかもしれません。

上七軒で団子を褒めて、特権を与えた時の話は残りませんが、由緒は硬い表現ですけど、万事こんな雰囲気だったのかもしれません。

上七軒の紋章がつなぎ団子であるのもこの故事が元になっており、同じく祇園甲部、祇園東が八坂神社の水茶屋由来でつなぎ団子、今はありませんが、堺の乳守の花街も住吉神社との関わりで串団子を紋章にしていました。


by gionchoubu | 2015-08-04 16:25 | 上七軒 | Comments(2)
Commented by 番太郎 at 2015-08-05 14:35
勉強になります ところで世界遺産清水寺下に清水新地と言う悪所が在った事は観光客は知らないでしょう(笑 コジキの溜まり場でもあったしすぐ近くにスラム(大仏前)。
Commented by gionchoubu at 2015-08-06 14:45
> 番太郎さん
清水新地は別名阿古屋茶屋といって明治四年まで遊廓があったそうです。
応仁の乱から江戸初期にかけては盗賊の巣で、参拝者に強盗を働いたとの事・・・今は昔の事となりました。