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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園甲部の太夫

祇園甲部の太夫_f0347663_15093966.jpg
                     吉野太夫花供養での島原太夫道中

以前ちょっと書かせて頂きましたが、祇園甲部に太夫さんがいた時期があります。これは明冶十九年島原遊廓が営業不振に陥り、祇園の末吉町に小林という置屋を含んだ三軒か島原から支店を設けて太夫を置いたのが最初です。

明冶十九年というと、祇園が完全に甲部と乙部に分裂した翌年で、さらに祇園が下河原を吸収したり、二条新地廃止を受けて二条新地から祇園清井に業者の一部が移ってきたり・・・どさくさ紛れという訳ではないでしょうが、あの豪奢に着飾った太夫さんが祇園町を行きかう姿は・・・祇園町の人も、祇園で遊ぶ人も、どう対処したらよいのかさぞかし迷ったことでしょう。

江戸期において、幕府公認の島原は京都遊廓の根本とされ、祇園も先斗町も上七軒も皆島原の支配下にあり、各遊所は島原に上納金を納め、芸者、遊女の監察までも皆島原から発行されたのですが、明冶になり総からく廃止、気がつけば島原は、繁華街から遠く離れた足場の悪い、京都の一遊廓になった訳で、言わばある日突然、古式豊かが古色蒼然に変わったのです。

その後、明冶二十七年には小林のみ残り、後の二戸はなくなり、代わりに三景楼が新たに太夫を抱えました。

この明冶二十七年に、松原警察署の主任警部が祇園新地甲部取締人を召喚してある苦言を呈しました。

それは、「近年、祇園町新地甲部区域内にて、縄手通り及祇園町通りは往来頻繁にして、殊に内外貴顕紳士の通行多きを以って、娼妓のうちにも太夫の如き打掛姿又は巻帯姿の者、昼夜を分たず、堂々と通行するは風俗取り締まり上、甚だ不体裁なれば、此両通りを通行する者は宜しく注意し、其醜態をして人目に触れざる様にすべし云々」というものでした。

祇園の太夫さん、まさか島原道中のように、傘持ち、二人の禿、今でいうマネージャーといえる引船さんを引き連れて歩いたものではないでしょうが、あの格好で公道を歩けば、警察も放っておくわけには行かなかったのでしょう。

甲部取締りは事務所で協議、以後縄手通り、祇園町を通る太夫は人力車か駕籠に乗せてお花にいくことを競技中、との事で、この記事が載った『花柳』に後日談はありませんでした。

大正四年の都をどりのパンフレットに揚巻太夫、高尾太夫、住染太夫、小車太夫、小町太夫ノ五人の太夫が赤襟を返して載っています。

娼妓である太夫が何ゆえ都をどりのパンフフレットに・・・という疑問がわくのですが、確か太夫はお茶のエキスパートでもあるゆえ、都をどりのお茶席でお点前を披露していたとどこかで読んだ記憶があります。

京都五花街で、祇園甲部が都をどりで、先斗町が鴨川をどりでのお茶席で芸妓が赤襟を返すのは、この二花街が過去御所でお茶席を設けた名残ではないか、と以前、私は述べましたが、都をどりで、赤襟を返した太夫がお点前を披露したなら、都をどりのみに関してなら、甲部芸妓の赤襟は太夫の影響を受けたと考えることも出来るでしょう。



by gionchoubu | 2015-07-05 15:11 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)