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by gionchoubu
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花柳病

遊廓に於いて、最も厄介なものの一つは梅毒でした。江戸時代、予防法として胡椒七粒、山椒七粒、赤小豆七粒、これを紅絹(もみ)の袋に入れて湯巻の紐に結びつけ置くとか、黄蓮、甘草、丁字、山椒、熊笹、灯心、梅干、膠、松の実に、体の不潔の毛三筋を加えて黒焼きにした薬を飲むとか、これはもう呪いの類で、いわばお手上げ同然でした。
陸軍軍医総監、松本良順は幕末に『養生法』を表し、その中で「下賤のもの百人の内九十五人は楳毒にかゝらざるのもなし、此其原花街売色に制なき故なり、西洋諸国楳毒を恐れて、花街を破却することあり、其時却て楳毒の病人増せり、依て其後花街をまし、毎年厳重に守衛を設け、法を立て楳毒病院を立て毎一週医官をして総売女を密に改め少も毒に感ずる婦人は直に病院に入て治療を加へ治し後出して元に帰らしむ」
遊廓を廃すると帰って梅毒が民間に広がるので、遊廓を増やして病院を作り、これに罹ったものを治療したほうが効果的と説いたのです。
さらに、オランダの医師ボードインも大阪浪華假病院の教師時代、大阪府当局に対して頻りに、芸娼妓の検黴を建言しました。
これをいち早く実行に移すべく奔走したのが、医者でもあった明石博高で、槙村参事(後の京都府知事)の許可を得て、祇園一力茶屋の杉浦治郎右衛門らに懇々と説き、明冶三年七月、東京、大阪に先立ち日本で一番先の娼妓黴毒治療所を祇園神幸道南側に設立しました。
明冶七年に府立療病院の所轄になり、二年後の明冶九年、この療病院の医師が内務省に送った答申が
一、 黴毒病院を設け娼妓を検査し其毒あるものをして入院せしめ治療を施すべし。
一、 検査は一週間に必ず一回之を受けしむべし。
一、 娼妓ある地へは医員出張し或は便宜に由て二三ヶ所合併して検査し病あるものは黴毒院に送り治療を受けしむべし。
一、 多病ある時は他医に治療を託するも勝手たるべし。
一、 黴毒院に関する職員は凡そ三名を要す。
そして同年九月に、いまの歌舞練場前西側に建てられたのが府立療病院出張假駆黴院でした。これが後の京都八坂病院の前身になります。上記の答申が雛形になり、以後日本の遊廓には必ず、健康診断を受ける場所(遊廓事務所が多かったようです。)と、指定病院がありました。
最後に娼妓と、花柳病に関する話を二つ紹介します。
福知山の猪崎新地の話を詰め込んだ『猪崎ものがたり』よりFさんの話。
娼妓さんにとって、この検黴の結果失業にもつながるので、死活問題でした。抱え主の楼主も非常な損失になるので、明日が検査という時は、具体的にどうやったか分かりませんが、一生懸命検黴に引っかからない様、女将が娼妓に処置をしたそうです。
医者の方も、はっきりと病気であれば入院させますが、可愛そうだという同情心が湧き、グレーゾーンは検査を通すこともあったそうです。娼妓の中で、全く心配のない者は二、三割とある医者が洩らしたそうです。
水上勉の『五番町遊廓附近』より、作者本人の思い出。
昭和十三年頃、のち『五番町夕霧楼』を世に送り出した作者が立命館の夜学に通っていた時、五番町遊廓に福知山の寒村出身の千鶴子という馴染みの娼妓さんがいました。(つまり学生でも馴染みが持てるほど遊廓は身近なものだったと言えます。)
水上の連れが千鶴子のいる楼にあがったあと、千鶴子が、暫らく自分を訪ねてこない水上の消息を尋ねたたとき、その連れが冗談で「あいつは淋病で寝てるよ」と言ったのです。
翌日、下宿のおばさんに起こされて二階から見ると、千鶴子が電柱の陰で、日傘で顔を隠して佇んでいました。
「すんません。うちがうつしたのよ。きっと。うちは病気やないけど、まわしのお客さんがそうやったんにちがいないんです。これを大急ぎで煎じて呑んでください。」と口早にいうと、新聞紙の包を置いて、走って帰っていきました。
千鶴子は、馴染の苦学生に病気を移したと衝撃を受け、眠るに眠れず、朝一番、朝一番薬局に行き、ペニシリンもない時代、正体不明の漢方薬を届けたのでした。
当時、借金のある娼妓が、早朝に、楼主に無断で、馴染み客のところに、たとえ病気見舞いにしろ駆けつけることなど、決して許されることではありませんでした。
このエピソードは、夕霧楼の作者の心にいつもあり、千鶴子の純情に涙することもあったと述懐されています。
ひょっとしたら、千鶴子がいなければ、あの夕霧楼の夕子も生まれてこなかったかもしれません。
参照:『明冶文化と明石博高翁』田中緑江編集

by gionchoubu
| 2015-06-28 12:31
| 遊郭・花街あれこれ
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