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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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五条楽園ぞめき その十一

五条楽園ぞめき その十一_f0347663_14535278.jpg
私が、当初『京都遊廓由緒』を元に、七条、五条間を南からABCDに区分けして、AとCが七条新地の指定地としてあるので、Cのみを取り出す場合、六条通りの延長上でもありますので、便宜上Aと分けて、六条新地と呼んだのではないかと考えました。

しかし、荻野家文書の旧名六条新地八町略図がBを六条新地としているので、Bを以って六条新地であると書きました。

先日、京都府立史料館の館古023中井家文書434、戌四日、正徳三年写『六条・七条新地絵図』を拝見、これにて正にBに高瀬川の西の現在の梅湊町を含んだ区域が六条新地と断定できました。

なぜなら、中井家こそ、奉行として三十橋近い公儀橋の普請を担当、その中で享保年間以降、工事内容の決定や図面の作成、工程管理にも深く関わっており、五条橋から正面橋、七条大橋、高瀬川の各橋を含む地図を保管したのは至極当然のことに思われます。

この地図は公開できるものではありませんが、正徳以前Aが七条新家地、Bが六条新家地、そしてCが北七条新家地と表記されており、六条新地をはさんで、A、Cが七条新地と呼ばれていったものと思われます。

ちなみにこの頃のD(五条橋下)は藪と畑の字が当てられています。

又、しっかりと五条の下から高瀬川に沿ってお土居が描かれていますが、これも宝暦になり、開発が進み、五条橋下にも茶屋株が与えられた頃すっかり整地されました。

面白いのは加茂川正面橋北に音羽川が東から注ぎ込んでいるのが書き込まれている事で、現在も同じ場所に暗渠となった音羽川の注ぎ口があります。

北の修学院のすぐ近くに高野川に流れ込む別の音羽川がありますが、絵図にある音羽川は、清水から流れてくる別の川です。

六条新地と七条新地の境となる正面橋が架けられたのは、両新地が開発された宝永・正徳ごろと推測され七条新地と六条新地が50%ずつ費用を出して維持管理を行なってきました。

しかし、これは負担が大きすぎ、橋の維持に幕末には七条新地は妙法院より、六条新地には東本願寺より助成金が出たそうです。

今一度中井家の図絵をみると、六条新地に一箇所、七条新地に一箇所高瀬川の舟入が見え、この間四本の橋が架けられています。

江戸期に置いて、六条新地は遊里化しておらず、その辺りの事情は次回に持ち越したいと思います。
五条楽園ぞめき その十一_f0347663_14542466.jpg



by gionchoubu | 2015-05-27 14:54 | 五条楽園 | Comments(0)