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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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五条楽園ぞめき その四

五条楽園ぞめき その四_f0347663_12040511.jpg
宝暦十一年(1761)、煮売株六十軒に増加、この時、『京都府下遊郭由緒』では書かれていませんが、島原遊廓の支配を受ける、と緑江さんは指摘しています。公許の島原の支配を受けるという事は遊女渡世が認められたと同じ意味になります。

この宝暦十一年にはD郡の内、南京極町が上七軒の新盛町より茶屋株を借り受け営業を始めます。ですから宝暦十一年が五条橋下の遊所が誕生した年で七条新地とは、出所が全く別の遊所としてライバル関係になりました。

明和九年(1772)以前に書かれた神沢杜口の『翁草』に、五条橋詰蕎麦切屋の話が載ります。その中で、「右の場所(五条橋下)は、七条新地地下ざまの者の通ひ行く遊里の咽首にて、日暮れれば群れる事、他の遊所に優れり。」と、当時、京都一賑った遊所であった事が分かります。

ただし、ここに集まるのは「其人柄各下劣にして、箕を担い、撈を肩に置く輩ばかりなれば、かしこの日小屋に立寄て、立ながら、蕎麦切を喰者夥し。又は都の入口なれば、都下の貴賤物見遊山のかへるさには、爰(ここ)に憩う輩多く、日暮れ前後はわづかの日小屋所せき膝を容るの寸地もなし。」

江戸期、五条大橋は、都、伏見、大阪を結ぶ大動脈で、四条の橋が絵図などを見ても大体が浅瀬をつなぐみすぼらしい橋だったのに対して、五条大橋は立派な官橋、破損しても官費で修理が出来たのです。

しかしその袂の一部はお世辞でも上品とは言えぬ所だったという事になります。

寛政二年(1789)、幕府の方針を受け、大々的な非合法遊女摘発が行なわれ、他廓同様、七条新地も茶屋株を差し止められ売女を島原に強制送還されました。五条橋下はともかく、七条新地は上記の如く島原の支配を受けていたならば、摘発を受けたのは、有無を言わせぬ圧力があったのかもしれません。

ところが同年、七条新地は、祇園、二条、北野とあわせ、島原に口銭を納めることで正式に遊女渡世が許可になりました。

前述したように人は街道の五条に集積され、其の内の有るものは七条に向かう図式が見えるのですが、七条新地が再開したと同時に五条の橋のすぐ南でも隠し売女が猛威を振るいました。
『史料京都の歴史』の『上月家文書』に、七条新地が遊女渡世を認められた寛政二年

五条橋下都市町の大文字るい 抱売女三輪
同所京極町 紀伊国屋新治郎 抱売女小はる
同所平井(居)盛御影堂南裏門角 播磨屋つね 抱売女小まつ 
同所御影堂境内紙屋吉三郎借屋 大坂屋まき 抱売女むめ
北七条岩滝町 津ノ国屋喜兵衛 抱売女ひな
同所聖真子町 山家屋熊次郎 抱売女はな

を七条新地が島原に訴えたのです。自分たちは公許の遊廓として口銭を納めているのに、非合法で口銭を納めぬ五条橋下に客を奪われ難儀している、取り締まって欲しい、という内容です。

ここで明らかになるのは当時の七条新地は前述のA郡(正面~七条)のみで、C郡を含まないと言う事、当時の七条新地の業者は二十軒だったこと。そして七条が五条に対して如何思っていたかです。
五条楽園ぞめき その四_f0347663_12063361.jpg

by gionchoubu | 2015-04-14 12:06 | 五条楽園 | Comments(0)