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宮津 新浜ぞめき その七
大正四年発行の『京都府誌下』によれば新浜に大正二年,貸座敷41、芸妓35、娼妓56とあります。
昭和五年刊、『全国遊廓案内』によると、貸座敷が五十九軒、娼妓は八十四人、芸妓が五、六十人はいるらしいと書いています
そして、主な妓楼として、出雲楼、丸十、黒田、豊亭、春花、いろは、花菱、松葉楼、松島屋、梅の家、米利、岡本、田宮を挙げています。
後で述べる、から代姐さんのお話によれば昭和二年に娼妓八十人、芸妓も八十人、ただし芸妓の内半分は本芸妓だが、残りの四十人はいわゆる二枚鑑札の芸者だったとの事です。
鑑札とは、当局公認の資格免許のようなもので、二枚鑑札とは、一人の女で、芸妓の鑑札と娼妓の鑑札を同時に持っている事です。
同じく昭和五年、当時の町長が“丹後の宮津でピンと出した”という俚謠があるが、現代向きでないとして、同地出身の詩人楠田敏郎に作詞に依頼して当地の流行歌になったのが宮津小唄で、一番に新浜が唄われています。
一、 宮津見に来りゃ 去る日がなかろ
やあと それそれ そうじゃないか
今日は橋立 あすは新浜 うかうかと
宮津よいとこな 天の橋立また来なれ
昭和九年の『技芸倶楽部』に、新浜のむらさき会による演奏会の記事が載りますが、それによると、当時の長唄師匠は杵屋勝蔵、囃子部が六郷吉兵衛師匠で、会場は宮津遊廓演舞場(歌舞練場)で、時は八月一日、出し物は「鶴亀」「梅の栄」「菖蒲浴衣」「多摩川」「八島官女」「忍び車」「俄獅子」だったといいます。
現在、宮津で、かつての歌舞練場(通称検番)の隣で、芸妓時代のかや代(よ)の名でスナックを営む、宮津芸妓の名妓のお一人のお姐さんに色々お話しを伺う機会を得て、貴重な新浜の花街の最後の輝きを教えて頂きました。
から代さんは昭和三十二年、十歳でこの世界に入ったのですが、京都の上七軒でも格式の高いお茶屋中里で稽古をつまれた経験をお持ちです。新浜の舞の流儀は、上七軒と同じ花柳流でした。
新浜の制度は芸、舞妓とも置屋をかねたお茶屋に身を置く形で、現在の宮川町の駒屋さんなどと同じシステムです。前回訪れた峰山は宮津新浜のシステムを踏襲したと思われます。そして舞妓は京都の五花街と同じくだらりの帯を締めていました。
十月には温習会(おんしゅうかい)があり、京都の花街との合同の踊りの会もあり、又、丹後の花街の中心であった宮津は、舞鶴、峰山、福知山、綾部の花街の中心として踊りの会も持ちました。
京都祇園や東京の新橋が踊り中心であったのに対し、新浜芸妓は京都なら先斗町や宮川町や上七軒、東京なら浅草花街のように、三味線、鳴り物、何でもこなせるのが自慢で、から代姐さんも小唄、端唄、新内、座敷民謡から長唄、清元・・・宮津芸妓の心意気をもった名妓の一人でした。
その宮津新浜の花街の幕が閉じたのは昭和五十四年頃で、芸妓も五、六人まで減っていました。最後まで宮津新浜を支えた芸妓の一人のから代さんも、さぞかし無念だったことでしょう。それまで、多額の税金を含め、宮津市の発展に尽くした新浜花街に、時代の趨勢は百も承知ですが、市が本気で支えたら、金沢の様に、芸の裏打ちがあった新浜花街は今でも健在だったと私は思います。
さて、今宵も楽しいお座敷はお引け、やおら三味線を取り上げた小奴の鳴らす旋律に小柄の一子が踊りだす。
√さっさ、よ、やっさ、その後にまだ十二歳のもっと小さい福子が続く、
√さっさ、よ、やっさ、直さんと料理人も立ち上がって列に続く、
√さっさ、よ、やっさ、みんな手を打つ、体を曲げくねらせ踊る、
√さっさ、よ、やっさ、時々踊り子達が叫ぶ合いの手が耳に心地よく響く、
√さっさ、よ、やっさ、皆一列になり踊る・・・
たまらず大柄の体を引っさげたケラーマンも列に加わり踊りだす、
√さっさ、よ、やっさ、
√さっさ、よ、やっさ、
楽しい宴はこれにてお仕舞。後ろ髪引かれ引かれも、さよなら新浜。