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by gionchoubu
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宮津 新浜ぞめき その一
現在の万年新地

ざっくりと、宮津遊廓の歴史を見ると、もともと市中に散らばっていた遊女屋を今の新浜あたりに集め囲ったのが東新地ですが、これは江戸時代の始め、都の各所にあった遊女屋を一箇所に纏めた六条三筋の廓とよく似ています。
そして、都の六条三筋あたりが市街化されてきたので、現在の島原に強制移転させたと同じ様に、宮津でも東新地も山よりの万年町に移されました。
島原は現在の地に留まったままですが、宮津の遊里の特異な所は、万年町から元の新浜に戻ってきたことです。
宮津の遊廓の歴史を年代で追っていくと・・・
文化八年(1810) 宮津に遊女屋が許可される。
天保十三年(1842) すべての遊女屋が東新地へ集住するよう命じられたのを受け、市中に十一軒あり「栄久講」と名づけた仲間組織の内七軒が移る。
この天保十三年は老中水野忠邦の天保の改革の年で、洛中の遊廓は島原に移るか全面廃業を命じられたのですが、それに比べると随分軽いお達しに思われます。
天保府命前、諸国の200箇所以上の遊里を相撲の番付に模した『諸国遊所競』に宮津の遊里が顔をださないのは、全国的な知名度がまだ低かったと見ていいでしょう。
東新地とは、魚屋町の北側を埋め立てた土地で、当時は海に面しており、北前舟の寄港地として、海港型の遊廓の色合いが濃いいものでした。現在はさらに埋め立てが進みましたが、それまで、新浜遊廓は天の橋立てが望める立地だった訳です。
万延元年(1860) 桜田門外の変が起きた年の十月に魚屋町名主の西川喜兵衛が新地年寄、白柏(しらかせ)町の元結屋(三上)清兵衛と本町の人参屋(殿村)五兵衛の二人が東新地取締に任じられたのですが、この殿村・三上の二人が就任中、公務日記として交代で書いた七冊の『御用日記』により、宮津の遊廓のしくみが現在に伝わるのですが、それは続きで明らかにしたいと思います。
この万延元年に東新地には家数七十二軒(内二軒は空き家)ありました。
文久三年(1863)三月二十九日、東新地の酌取女・茶汲女の置屋に商売替えの命令がでるが、置屋の抵抗により、遅々として進まず。
慶応二年(1866) 東新地は事実上廃止、囲い門戸も取り払われ、東新地の名称は東新浜に改称、さらに吹屋谷という山よりの地が万年町と改められる。この時、葛屋町(蛭子町)口と吹矢谷(万年町)口の両側に、東新地より黒塗冠木門を移して境界としました。
慶応三年(1867) 万年町の裏側を万年新地とし、宮津市中の「遊女業者体之者」を集中させた。
万年新地の誕生です。

そして、都の六条三筋あたりが市街化されてきたので、現在の島原に強制移転させたと同じ様に、宮津でも東新地も山よりの万年町に移されました。
島原は現在の地に留まったままですが、宮津の遊里の特異な所は、万年町から元の新浜に戻ってきたことです。
宮津の遊廓の歴史を年代で追っていくと・・・
文化八年(1810) 宮津に遊女屋が許可される。
天保十三年(1842) すべての遊女屋が東新地へ集住するよう命じられたのを受け、市中に十一軒あり「栄久講」と名づけた仲間組織の内七軒が移る。
この天保十三年は老中水野忠邦の天保の改革の年で、洛中の遊廓は島原に移るか全面廃業を命じられたのですが、それに比べると随分軽いお達しに思われます。
天保府命前、諸国の200箇所以上の遊里を相撲の番付に模した『諸国遊所競』に宮津の遊里が顔をださないのは、全国的な知名度がまだ低かったと見ていいでしょう。
東新地とは、魚屋町の北側を埋め立てた土地で、当時は海に面しており、北前舟の寄港地として、海港型の遊廓の色合いが濃いいものでした。現在はさらに埋め立てが進みましたが、それまで、新浜遊廓は天の橋立てが望める立地だった訳です。
万延元年(1860) 桜田門外の変が起きた年の十月に魚屋町名主の西川喜兵衛が新地年寄、白柏(しらかせ)町の元結屋(三上)清兵衛と本町の人参屋(殿村)五兵衛の二人が東新地取締に任じられたのですが、この殿村・三上の二人が就任中、公務日記として交代で書いた七冊の『御用日記』により、宮津の遊廓のしくみが現在に伝わるのですが、それは続きで明らかにしたいと思います。
この万延元年に東新地には家数七十二軒(内二軒は空き家)ありました。
文久三年(1863)三月二十九日、東新地の酌取女・茶汲女の置屋に商売替えの命令がでるが、置屋の抵抗により、遅々として進まず。
慶応二年(1866) 東新地は事実上廃止、囲い門戸も取り払われ、東新地の名称は東新浜に改称、さらに吹屋谷という山よりの地が万年町と改められる。この時、葛屋町(蛭子町)口と吹矢谷(万年町)口の両側に、東新地より黒塗冠木門を移して境界としました。
慶応三年(1867) 万年町の裏側を万年新地とし、宮津市中の「遊女業者体之者」を集中させた。
万年新地の誕生です。
by gionchoubu
| 2015-02-18 11:53
| 京都の花街・遊廓
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