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赤襟を返す

歌舞伎『助六由縁江戸桜』をご覧いただくと、揚巻を中心にズラット並んだ吉原の花魁たちの見事な艶姿、この花魁たちが、それぞれ豪華な衣装で並ぶ中、皆一様に赤襟を返す姿が、色とりどりの着物姿に、見事なアクセントを付けているのに気づかれることでしょう。
この赤襟を返すのは本来島原の太夫の風習ですが、歌舞伎の世界では、どうしたものか、東も西も遊女の証しと見なされているようで、遊女の側面の強い大阪歌舞伎での茶屋の娘は赤衿を返しますが、同じ場面に出る仲居さんなどは襟を返しません。
そもそも、何故島原太夫が赤襟を返すかは、遊女の最高位であった昔の島原太夫は、十万石の大名と同位の正五位の官位を持ち、禁色の赤を身にまとっていることを見せ、御所に入所出来る事をアピールしていると言われています。
ですから、官位と無縁な花魁さんなどが、赤襟を返すのは、一種のファッションのようなもので、歌舞伎の世界でも花魁が赤襟を返すのに眉をひそめる人もいました。
不思議な事に、京都五花街のうち、祇園甲部の都をどりと、先斗町の鴨川をどりの芸妓(以前舞妓と書きましたが芸妓との御指摘受けましたので書き換えました)さんのみが、幕間のお茶席でこの赤襟をかえすのです。
実は明治十年、京都の花街が、博覧会協会が仙洞御所の酔花亭にてお茶席を設けたことが有り、この時編み出されたのが、椅子を用い海外の方にもお茶を楽しんで頂くための立礼式で、現在五花街の~踊りのお茶席は皆、この立礼式(りゅうれいしき)の作法で接待しています。
この時島原太夫も抹茶の接待をしましたが、もし、その京都の花街が祇園と先斗町の芸妓のみであり、島原太夫の赤襟の風を取り入れたと考える事は出来ないでしょうか?
ただ、この二花街の芸妓の赤襟が御所でお茶席を設けたことによるものか、どの文献で見たことも、聞いたこともなく、私が密かに思っていることだけで、何も証拠たるものが無いのであしからず。(実際関係者に、そんな馬鹿なと一笑された事があります、ただ理由は説明されませんでした。)
さて、そもそも、この太夫の襟返しですら、いつからあったものか触れているものに出会った事がなく、江戸期の太夫の絵姿を見ても、この赤襟に出会った事は、私の経験としてありません。
五年程前、常照寺の「吉野太夫花供養」で、質問コーナーみたいな場があったので、おそるおそる、如月太夫にこの質問をしました。
太夫もご存知なく、きっと私のことを、眼鏡の「面倒くさい奴がいる」と思ったに違いないのですが、表向きはにこやかに、しかも毅然と「こんどお会いしたとき屹度お答えしようぞ。」みたいな事を太夫言葉でおっしゃいました。
ところが向こうは正五位、こっちは平民、個人で太夫にお花をつけるなんて、とてもとても・・・
「今度って、一体どういう状況なんだよ~」と言いたい気持ちで一杯です。
参照:京の花街「輪違屋」物語、高橋利樹



私も、確証はありませんが、太夫さんの赤襟は一種のファッションで、幕末かそれこそ明治以降の風習だと思います。井特さんや、山口素絢の絵は機会があれば見たいものです。
都をどりと鴨川をどりの赤襟、芸妓さんでしたか、舞妓さんとばかり思いこんでおりました。ご助言大変感謝します。間違った情報をそのままにしておけないので、ブログも訂正させて頂きます。(ほかでも随分間違えをしていると思います。)本当に有難うございます。

お茶席の芸妓さんは一見舞妓と紛らわしいですが、前髪を白い髪で括り、帯をお太鼓に結んでいます。宮川町では姉さん舞妓がお点前しますが


明治の初めの博覧会で仙洞御所での点茶の接待を担当したのは
太夫以外は都踊りと鴨川踊りの非番の者が15名づつ交代で務めたと
昭和4年発行の「花街めぐり」松川二郎著にあります。
(祇園町と先斗町だけです)
その時の点茶の義が受け継がれ「をどり」の席でも行われるようになったそうです。
その本にはあくまで祇園町関係者の聞き取りとして書かれていて
赤襟を返したのは「芸妓」とは掛かれず「舞妓」と書かれています。
芸舞妓いずれにしても、仙洞御所へお茶の接待を上がったことが
芸妓さんの赤襟を返す起源であるように感じます。
私も以前その考えでありましたが、今は明治の中頃に嶋原から置屋が引っ越してきて、営業をはじめ、都踊りのお茶席を赤襟返して担当したので、それが芸舞妓に引き継がれたんじゃないかと考えていますが、正直わかりません。

明治時代の所轄である松原警察署長名で
祇園町での花魁道中を慎むようにお触れが出ていますね。
だからといって祇園町の芸妓が島原の太夫の真似をしたのは
どうも解せません。
昭和の初め祇園町の関係者から聞き取りした
伝聞のほうが信憑性が高いと感じます。
祇園町の芸妓が太夫の前をしたのなら
なぜ先斗町も真似したのか?と新たな疑問が沸き上がります。
だいたい立礼式の茶の振舞い方自体が
仙洞御所が始まりで各花街の踊りの時に引き継がれてますから
まぁそんなことを疑問に思う人は
もう花街に居ないでしょうけど・・