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by gionchoubu

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中書島遊廓の歴史 その一

中書島遊廓の歴史 その一_f0347663_17282302.jpg
                      醍醐田町
中書島の遊廓史は江戸時代以前に遡ります。最初遊女がいたのは今の伏見南浜小学校辺りの柿ノ木浜町のようで、寛永三年(1626)今は無き阿波橋の西の西柳町に移りました。ここは今の豪川の西、阿波橋町辺りをいったものと思われます。もう一箇所は現在黄桜酒造が建つ南浜町でした。

高瀬川のすぐ東に豪川が流れており、遊女達も舟運関係の男達を中心に渡世していたと思われるのですが、ここの出身者に薫という名妓や、後年島原に移り良純法親王につくした八千代という名妓もいました。

八千代は元伏見の柳町、福田理兵衛の禿で、慶安二年(1649)二月十日、島原の奥村三四郎に抱えられ、八千代と称しました。『色道大鏡』に「古今無双乃遊女高徳秀才人也」と手放しで賞賛されており、良純親王が甲州に配流された後、剃髪して尼となりました。

その後、この二つの遊所が統合され、中書島の遊廓が開かれる以前、慶長元年、伏見に撞木町遊廓が誕生したのと同じ年、京の町に柳町二条の遊郭を築いた林又一郎が、伏見田町(丁)にも遊廓を開いたとあり、撞木町の西とまでは記録にあるのですが、古地図をみても田町の場所は不明です。

撞木町遊廓の西北一キロのところ、現在東高瀬川を挟んだ醍醐田町がありますが、角倉了似がこの流路に着工したのが慶長十八年といいますから、この線は薄いと思われます。

私の仮説として付け加えると、田町は町名でなく田の形をした遊廓だった故、そう呼ばれたないか、という説を視野に入れることは出来ないでしょうか?というのも後の中書島遊廓の形状も田の字をしているからです。この考えは、同じ年にひらかれた撞木町か、もとは夷町でしたが、その町のTの形状をもって撞木町と呼ばれたことから脳裏に浮かびました。

さて、伏見に撞木町遊廓と田町の遊廓が誕生する二年前、文禄三年(1594) 大地震で伏見城が倒壊し、多くの奥女中が犠牲になりました。その際柳町の遊女を臨時の雑用に付かせたというのですが、当時の遊女の風を考えるに、面白い事例だと思います。ただしこの倒壊は、『京都市の地名』によれば文禄五年とされています。

その後、伏見城は指月(観月橋辺り)から伏見山にうつり再建されるのですが、
文禄五年が正しければ、機に聡い又一郎の事、大造営の職工人を当て込んで遊廓を開き、それが出来るとサッサと都に引き返して、その後、一世を風靡しおた遊女歌舞伎の興業主の一人となったのかもしれません。というのは田町の遊廓はまもなく消滅しています。

伏見の遊所といえば、淀にもあったという記録もありますもの、普通、この中書島と以前一項を設けた撞木町そして宿場町の墨染めの三箇所が上げられるのですが、現在は京都市ながら、伏見の遊所は市内の遊廓・花街とは違った歴史をたどり、京都の遊廓の総元締めであった根本の島原の支配下から免れ、天保の改革の遊所整理で、市内の遊廓が廃業か、島原に移れという命からも外され、墨染のみ中書島か中書島に移れというごく軽いお達しで、それすら、名目を茶屋株から旅人宿か商人宿に鞍替えすれば良いことになり、事実上黙認の形を得ることが出来ました。

島原以外、生きるか死ぬかの選択を迫られた都の業者にとって中書島は羨望の的だったに違いありません。





by gionchoubu | 2015-01-06 17:29 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)