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祇園ねりもの 四十
「俄ということは、京師祇園の祭礼、また島原・住吉の祭の練物などを学べるにや。その始は、享保十九年甲寅八月、九郎助稲荷正一位と官位ありてその祭礼より起これりと也」
『嬉遊笑覧』では漫才のルーツと考えられる俄狂言の源流を祇園や島原の練物に求め、享保十九年の吉原の九郎助稲荷の祭礼(ねりもの)から俄が始まったとしています。
つまり、今の漫才の源流は遡るとねりものに行き着くことになります。
九郎助稲荷は吉原が開かれた時、鎮守の神として勧請し、明暦三年(1657)新吉原
に移転した後も鎮守として崇められ、後遊廓内に散らばっていいた玄徳永稲荷、榎本稲荷、開運稲荷、明石稲荷とともに合祀して吉原神社になりました。
俄は、爾和雅、仁和嘉、仁和歌の字を当てることもありますが、本来、酒席などで、客をなぐさめ、座を引たてるため、太鼓持が即興で演じたもので、『吉原雑和』に「或人の云、古人注して、にわかは速戯なり、諺に云、俄は我も人も趣向を競ふの字義なり~略~されば当意即妙の風流間に髪もいれざるにや、其趣向あるを以て本意とすと云々。左あれど、年々さまざまの事くさ多く、善つくし美つくし、潤色いやましにて、人の耳目をよろこばしむること等閑ならす~」と俄の本質を説いています。
九郎助稲荷の祭礼は、中之町の桜、玉菊灯籠とあわせ吉原三大景容の一つで、
俄が始まったとされる享保十九年(1734)といえば祇園ねりものも黎明期、この江戸の俄がどんな形で行なわれたのか、ねりものを花魁が出し、俄を幇間が演じたのかどうか、今の私には全く見えてきていません。
『東都歳時記』の八月の項で、
「当月中頃より吉原町俄始まる。踊り透物等花美風流をこらし、九月中旬まで毎夜だす。」
『吉原春秋二度の景物』の安永二年(1781)では、江戸町一丁目三点、京町一丁目二点、江戸町二丁目、京町二丁目、角町、新町が一点ずつ、と基本吉原内の町内単位でねりものを出していましたが、角玉屋、万佐、扇屋などの大店でもねりものが出ました。
一部紹介すると、
江戸町 汐くみ萌黄のかり衣、金ゑぼし、汐桶を荷ひ大勢揃いでる。
角玉屋、歌仙、矢根五郎、音頭、春駒
参照:日本史小百科 遊女、西山松之助編
by gionchoubu
| 2014-10-06 16:00
| ねりもの
|
Comments(0)