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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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林又一郎

林又一郎_f0347663_11351614.jpg
              祇園ねりものでお馴染みの長秀による大阪新町のねりもの姿
元和三年(1617)十一月にも、六条三筋町は大阪の町人八郎兵衛、伏見の餅屋権尉、伏見の銭売えいらくや、むさしと言う寺のあんと、出雲の禰宜の藤十郎、大仏(大和大路七条)の甚三郎という旅籠屋、甚右衛門という町人を無免許遊女屋として告発しています。

同じ頃、三筋町は西洞院まで拡張され、女歌舞伎を主催しつつ遊女集団でもあった興業集団を吸収して六条三筋の西半分に一町を設け、揚屋町、太夫町と名づけました。ちょうどこの頃、江戸で最初の吉原(古吉原)が誕生するのですが、六条から麹町に進出した業者は京町を開きました。この少し前、名古屋城築城のさい、徳川家康の許可の下、長くは続きませんでしたが、飛田屋町廓ができたのですが、この時も六条三筋の業者が手をかしています。

ところが、女歌舞伎の本締である林又一市郎は柳に風で三筋町には合流せず野に下ったままで、元和四年、前回の告発が一向に実を結ばない状況に業を煮やした業者は再度又一郎を訴えでました。その内容は、一、町中で太夫と名づけ傾城屋を営業している、一、四条河原で表向き風呂屋だが一月に一度も風呂を焚かず遊女を置いている、一、さらに旅籠屋名目で遊女屋を営業している、と、税金を納める三筋側にとって非合法遊里は死活問題でもあるので、とにかく又一郎何とかしてくれという思いが文面から伝わります。

いったい林又一郎とはどういう男だったのでしょう。彼が歴史に顔をみせるのは、慶長元年(1596)伏見田町に遊女屋を開いていることからです。その二年後に柳町二条開業に手をかすのですが、これは遊廓作りのノウハウを主宰者である原三郎左衛門に請われたものでしょう。

又一郎のもう一つの顔は遊女歌舞伎の興業者としてのそれで、遊女歌舞伎が始まった頃、慶長十五年(1610)すでに加藤清正に招かれ林又一座を率いて熊本まで遠征しています。遊女歌舞伎そのものは寛永六年(1629)、あまりに扇情的という事で幕府に禁じられるのですが、それまで四条河原の芝居小屋で爆発的な人気を得ました。

多くの本にこの又一郎が寛文十二年(1672)年に嶋原の扇屋お抱えの有名な夕霧太夫を連れて大阪の新町遊廓に移ったと言われていますが、仮に伏見で遊廓を開いたのが、二十歳としても、大阪に移ったのが100歳近くになるので、私は大阪に渡ったのは又一の息子が同じ名を名乗のり、二代目又一郎として大阪にのりこんだと推測しています。

夕霧は『好色一代男』の中で、「神代このかた、類なき御傾城の鏡」と言われ、
あらゆる芸道に通じ、行儀作法も非の打ちようがなく、その美しさは芙蓉が霧を含んでいるようだと持て囃された名太夫でした。又、歌舞伎役者の名跡に林又一郎がありますが、これは初代又一郎を祖宗としたものです。

余談になりますが、同じ大阪で、秀吉の大阪城建設の際して多くの伏見町人が移住してできたのが、現伏見町で、これと境界を保つのが道修町です。じつはかつて道修町と伏見町の間に又市町がありました。又一郎とつながるものは何も見出せないのですが、築城に遊里はつきもの、大阪に移り住んだ伏見町人が、この仮初の遊里(これも記録には有りません)にちなみ、地元のスーパースターである又一の名を附けた・・・こんな妄想が頭をよぎるほど、又一郎の行動はダイナミックなものでした。又一郎は又市と表記されることもあったのです。

参照:以前の参照に加えて、『大阪の町名』清文堂


by gionchoubu | 2014-10-05 11:44 | 京都の遊里 | Comments(0)