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祇園東ぞめき 十四
まず、祇園東の舞踏の歴史について振り返ってみます。この地は祇園の一部として、江戸中期から京都の花街を席巻した篠塚流でした。こちらは舞台向きの派手な振りが特徴で、「手を伸ばさばあらんかぎり、足を伸ばすのなら伸びる限り」というもので、初代は篠塚文三郎、歌舞伎の立役だったとされており、佐渡島流、江戸志賀山流に幸若能楽金春流を応用して独自の境地を開きました。
三代目文三が明治十九年臨終の際、新橋東大路に西入北側の路地に玉うのという師匠がおり、たかという師匠と一緒に篠塚流を継ぐように頼みましたが、両女とも遠慮して継がなかったという話が伝わっています。
その後、明治五年の都をどりの後、祇園は井上流一本になり、甲部は現在も井上流、乙部時代に東は藤間流となりました。
明治十九年、美摩女紅場を建設した後はここで温習会も催していましたが、昭和十六年に今の会館の土地を買い求め、戦後アメリカの進駐軍に接収されていた歌舞練場(演舞場)や事務所を処分、昭和二十四年現在の場所へ初代の祇園会館を作りました。
この館は総檜造り和風建築、舞台窓口三十六尺、奥行二十二尺、左右の桟敷は高欄付一部椅子席、収容人数五百五十名(収容人数は現在の感覚では六割程度だと思います)一階にフランス料理店を備えていました。開館を記念して、花櫓、お祭り、其儘三写絵、雪月花、幻お七、奴道成寺、第二部、再春菘蒔、三社祭、隅田川、釣女を三月二十一日より二十七日まで第六回温習会として開催しましたが、より一層拡大したものと再建築を願い三年後に二代目である現在の祇園会館が誕生しました。
昭和三十三年三月二十三日開館、舞台の幅を六間から八間、客席も五百から千(当時の座席表を見ると席は六百六十七、消防法の規制を受けない時代でしたので、収容千人はそれを踏まえての数字です。その後、昭和六十一年、祇園会館全面改装、席数を減らし、現在は五百二、階段前が縦十一列から九列に、階段後も大半が横三十席から二十五席に減らしました)に広げ、今の形になり、祇園をどりが毎秋行われるのはご存知の通りです。
新築落成記念公演は、宝塚歌劇団の演出家でたいへん厳しい指導でしられた、白井鉄造作、阿国山三歌舞伎始、八場、舞鶴三番叟、北州千歳寿、初だよりマイラセリ、狂獅子各一場でした。
祇園会館は当初、春も祇園東による催しがあったようですが、後年長きに渡って名画館として親しまれていました。現在祇園をどりの期間以外は吉本花月が毎日舞台を行っています。
記念すべき祇園おどり(四回よりをどりに変更)の第一回は昭和二十七年、作、野淵昶、番組は、京井筒、日向平家、柳、京都アルバム、取締は富森菊一氏、芸妓組合長は岡島豊治で、この時の観覧量三百円、茶席が二百円でした。
第二回と三回と六回は林悌三作、四回と五回は白井鉄三作、第七回は竹内伸光作、そして第八回も竹内伸光作ですが、構成に田中緑江氏がかかわり、パンフレットのごあいさつでも顔を並べます。その後二十一回(昭和五十二年)より長きに渡り、脚本、構成は“京の花街”の著者でおなじみの度会恵介氏が担当、現在は塩田律が脚本、構成を担当しています。
振付は第一回~第五回まで藤間良輔、六回~二十回まで藤間勘寿郎、二十一回からは現在まで藤間紋寿郎が担当しています。
第三回から第四回の間、昭和二十九~三十三年までブランクがあるのは二代目祇園会館建設の為、又、昭和六十三年には昭和天皇崩御のため中止されております。
京の~踊りは明治五年より祇園の都をどり、先斗町の鴨川をどり、そして下河原の東山踊り(まくづ踊り)が最初で、その後すぐ島原の青柳踊り(明治七年か八年より三、四回行われた様です)、実は明治五年宮川おどりも附博覧会の予定にあったのですが、実際催された記録はどこにも見つかっていませんので、中止になったという見方がされています。宮川町の京おどりは昭和二十五年。そして昭和二十七年、菅道公千五十年万燈祭に協賛し、上七軒が北野をどりを始めました。
by gionchoubu
| 2014-09-04 18:08
| 祇園東
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