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by gionchoubu
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宮川町ぞめき 四

祇園と歌舞伎といえば仮名手本忠臣蔵七段目の祇園一力の場が有名ですが、実は内蔵助が一力で遊んだという記録はなく、これは実際内蔵助が通った伏見の撞木町遊廓の笹屋を演出上祇園に移したものとされています。
ただ口伝ではありますが、元禄十四年、主税が京都山科に滞在中に宮川町の蔭間となじみになったという話が伝わっています。この陰間(かげま)の語源は、若衆歌舞伎の時代、実際の舞台に立つ役者が舞台子なら、控えの役者である陰の間が転じたのが陰間、すなわち色子でありました。
この宮川町の若衆に群がったのが、女に飽きた金持ち、未亡人、そして僧侶達で「叡山の水、宮川町に抜け」「釜の座は、宮川町と和尚いい」女犯の戒律には背かないという理由で若衆にうつつをぬかしたのは、西鶴の「男色大鏡」に妙心寺の開山三百五十年忌に諸国から上洛した金持ちの僧侶たちが宮川町で散財する話でも明らかであります。
さらに宮川町が歌舞伎の世界に残したもので、いわゆる役者の屋号の内でいくつか、たとえば音羽屋など、宮川町の若衆茶屋の屋号が由来であろうと田中緑江氏は推察しておられます。
衆道の地としての宮川町の歴史は承応元年(1652)女歌舞伎が禁じられた頃から始まり、具体的な記録としては貞享五年刊『諸国色里案内』に、宮川町の記述があり「こゝは、ぶたい子・かげ間・野郎のすみか、ぶたい子銀壱枚、かげ間屋金子壱歩、あるいは廿匁」と見え、この風は天明(1781~1788)頃まで続いたと言われています。
野郎歌舞伎の時代、宮川筋一丁目に、玉水や・水木や・えびすや・中村屋・花屋・葛や・ゐづつ屋・若木や・竹屋などの酒席が軒を並べたといいます。(京の花街)
さて、遊女街としての宮川町の歴史に戻ると、『京都府下遊廓由緒』によれば、「宝暦元辛末五月宮川筋一町目ヨリ六町目迄十ヶ年限茶屋株差氏許相成追々年継続済致シ候由記録アリ」と記されていますが、宝暦元年は1751年、これを許可したのが京都所司代松平豊後守資訓で、町奉行は稲垣能登守正武でした。
町割りとしての宮川町は五丁目までが四条河原、六町目より建仁寺領に属していたのですが、茶屋株がおりてから、すなわち非公認ながら実質遊女町になってからこの境界線はなくなったようです。
それから十九年後、明和七年(1770)、祇園町とともに茶屋株継続を許されるのですが、『月堂見聞集』によると、享保八年(1723)五月二日夜、宮川筋四丁目の露地より出火し、三丁目、四丁目で百八十軒あまりが焼け、この中に歌舞伎役者二十一人の家も被害にあったのですが、実際火元も歌舞伎役者瀬川菊之丞という噂が広がったといいます。その後も翌享保九年、同十五年、さらに寛保元年(1741)と立て続けに火事があり芝居櫓は消失、多くの舞台子が道頓堀に移り、そのころあった六座の内二座が廃絶、あるいはこれを機に宮川町も衆道の町から遊女の町へ比重が移っていったのかもしれません。
