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宮川町ぞめき 三

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『当代期』によれば出雲阿国が北野でかぶき踊りを見せたのが慶長八年(1603)とされ、その後宮川町のすぐ隣りの四条河原では、島原の前身である六条三筋の廓の遊女による歌舞伎が人気を博しました。

『孝亮宿禰日次記』の記述に、慶長十三年の四条河原の興業に数万人の群集が押し寄せたと有るので、その人気はすさまじいもので、寛永六年(1629)には女舞、女浄瑠璃を含め女歌舞伎は禁止されます。

『京童』に女歌舞伎の観客は「皆六根をなやまし、心を六塵にとらかし、宝をなげうち、あるいは父母の養いをかえりみず」と、これはまさに江戸幕府の人民に対する政策方針の間逆をいくもので、遊女歌舞伎自体も、自廓の宣伝のため興業したに他ならず、この間元和期(1615~1624)京都所司代板倉勝重は、四条河原の七つの櫓に興業権をしぼることで歌舞伎の取締りを掌握し、町中にあった六条三筋の廓も郊外である島原に移転させ風俗統制に乗り出しました。

ちなみに、女歌舞伎が禁止された年、四条河原で女性による能が催されたのですが、それを見に来た侍集団の喧嘩の結果により多くの死者を出した事例を見ると、江戸時代が始まって暫く、まだ侍にも民衆にも戦国時代の気質が残っていたのかもしれません。

阿国歌舞伎、遊女歌舞伎の後に現れたのが若衆歌舞伎で、それまでマイナーであった稚児や若い美少年の踊りや狂言に時代が移行します。しまつのわるい事に、男性の中には戦国時代からの風習である同性愛の衆道に走り美少年であるがゆえ大名、武家の奥方まで若衆歌舞伎に熱中し、『江戸名所記』によれば「若衆どもの髪うつくしく結い、うす化粧して小袖の衣紋じんじょうに着なし、ほそらかなる声にて小歌うたい」「桟敷にある方々は耳元まで口をあき、よだれを流し」という状況に至った為、承応元年(1652)幕府は体制維持、社会秩序の点からこれをも禁じ、若衆は前髪を切り、月代の成人頭での舞台を余儀なくされ、歌舞伎は今の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎としての道を歩んだのであります。

それまで武士や僧侶の間でのみ行われた衆道は若衆歌舞伎以後、野郎歌舞伎になり女形が生まれ、庶民にも広がったわけですが、宮川町はこういった役者を抱えたお茶屋を若衆茶屋、蔭間茶屋と呼び衆道の地として盛んになり、この風は天明の頃まで続きました。

『近世風俗史』によれば、江戸ではこの男色は、芳町、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町代地、神田花房町そして芝神明前で盛んであったが、やがて芳町、湯島天神、芝神明前に限られ、天保の改革後は湯島天神のみで密かに行われたとあり、大阪では、明治以後、南地五花街の一つに吸収された坂町も衆道が盛んでしたが、天保後消滅したとされています。

さらに、「京師は宮川町と云ふ遊女町の中にあり。」「因みに記す。京師宮川町某の家にて通和散、一名ねりぎと云ふ白き末薬を製し、三都にこれを売る。男色かならずこれを用ふ。」と衆道の宮川町について述べています

京の宮川町は勿論、東京の芳町、湯島天神、芝神明前、大阪の阪(坂)町ともども、男色が無くなった後でも高名な花街たりえたのは、歌舞伎と花街との密接な関係を窺わさせるものです。

浅草芸者の地方の芸風はとにかく清本でも小唄でも浄瑠璃でも何でもこなすことで、一つの道を究め、客の求めに応じた曲を弾くなどは芸者としてのプライドが許さない芸所の花街からは五目と揶揄されるほどなのですが、この浅草芸者の歴史をたどれば、中村座、市村座、河原崎座という江戸三座の芝居茶屋に生まれた猿若町芸者つまり櫓下芸者にいきつきます。

また大阪道頓堀五座(角座、中座、朝日座、弁天座、浪速座)にあった南地五花街の内、特に今の松竹座の南にあった難波新地にたくさんいた、座敷に入ると「コリャ珍しい顔じゃなあ」というのが極まり文句であり、色気をはなれ面白く座をもつヤケ芸妓が存在したこと、そして南座を含七つの櫓の役者を擁した町で、いまでも一年目の舞妓でさえ座持ちの良さは京都五花街一であると、私が信じて疑わない宮川町など、もし歌舞伎街型花街という類型がなされるならば、その特色は気持ちよくお客を遊ばし、満足させるという所にあるとさえ私には思えてきます。

実際、特定の花街は於いて、芸妓が歌舞伎役者のパトロンのような存在であったという様な話はたくさんあり、花街が歌舞伎の後ろ立てのような時代がありました。芝居と花街は密接な関係を持ち、とくに明治から終戦までどんな名優でも花街の応援がなければ芝居は成功しないと言われたほどです。

祇園では昔、歌舞伎役者は座敷に上げないという不幸な時代もありましたが、明治以後、祇園は街を挙げ、時には総出で東京の歌舞伎総見に出かけ、このため祇園で芸舞妓を座敷に呼べないという事まであったそうです。


by gionchoubu | 2014-07-26 12:21 | 宮川町 | Comments(0)