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by gionchoubu
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祇園東ぞめき 九
そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。
そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。
この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。
残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。
この遊廓の甲、乙制は祇園以外にも京都北新地(五番町)、大阪南五花街他でもみられるのですが、祇園の場合は全く違う二つの花街としての分離でした。
この時の版図は甲部が祇園町南側、膳所裏を除く祇園町北側、中之町、富永町、清本町の一部、弁財天町、元吉町、二十一軒町、常磐町、橋本町、末吉町、川端町と林下町の一部、清井町の一部、宮川町一丁目、鷲尾町、下河原町、月見町、上弁天町の十九町で、一方乙部は祇園町北側の一部、林下町の殆ど、清本町の一部になります。
甲、乙が分離するすこし前、明治十一年六月八日届け、同七月に大西亀太郎によって出版された『都の花競』に現祇園東から届けられた芸、舞妓の名簿を見ますと、膳所裏に、祇園町北側より出稼ぎの分として芸妓小鶴、八重松、菊葉、舞妓に力松、祇園町南側より出稼として芸妓常松、鶴吉、舞妓に鶴松、林下町に芸妓鶴香、舞妓に玉鶴、松栄の名を認めることができます。
藩邸は膳所藩(現滋賀県)引き上げの後、谷口起孝という人の管理となり、藩邸内は殆どが貸座敷になったのですが、敷地は所有者が転々とし、昭和五年頃には神戸の乾新兵衛のものとなり、番頭の山本彦五郎が所有していました。
膳所藩邸跡地に話をもどすと、その殆どが住所でいうと、ほぼ祇園町347番地で、昭和四十年ごろの地図とてらしあわせると、今は途中で家屋になり無くなった境界線の路地を含め、くっきりと藩邸跡が浮かび上がります。
さらに付け加えると、この辺りの水道管の権利は滋賀県守山の人で、戦後しばらくたっても、この辺りにビルなどを建設するには、工事関係者はその方の承認が必要だったそうです。