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祇園東ぞめき 五


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                          観亀神社宵宮祭

天保十一年(1840)春の祇園新地を描いた井上春曙斎の版画にこの膳所藩が描かれており、門が小堀通りにあった事、新橋通りから二、三軒おいて屋敷の北に接していること、邸内に数本の桜が有ったこと、薬湯の町(花見小路)から四軒ほどおいて藩邸の西に接していたことがわかりますが、火の見櫓は富永町に近く、つまり現在の櫓からみてもっと東南に描かれています。

現在の東のお茶屋のうち、榮政、富菊、中勇、梅田、繁の家、そしては田中菜美まで膳所藩邸にありました。

この観亀神社の大祭は例年五月十三日に行われるのですが、平成二十二年に祇園東歌舞会と氏子らの寄付で大鳥居が新調され、二十三年と二十四年には舞妓による抹茶の振る舞いや舞の奉納がありました。平成二十四年、そして本年の二十五年には夜、芸、舞妓によるビールの屋台が出、さらに高台を設けお茶屋遊び体験、舞妓による根付の販売等で賑わいを見せました。

さて、祇園新地に茶屋株が許された享保十七年からわずか二十数年、宝暦年間(1752〜1763)に書かれた洒落本『袂案内』に祇園町(四条北、南側)と祇園新地(外六町、内六町、現在の祇園東を含む)の様子を、祇園町は「客も皆よろしく、或ひは屋敷の留守居なぞ、又は、よろしき町人の小息子、今様の染出し帯幅広、また、其の上に帯の中筋を外の色に継ぎ足し、随分、人に目立たぬやうに長羽織着流し、もっぱら、役者を写し、遊びは、甚だはなやかなり」と藩の上役や大店の息子などが品よく遊ぶすがたがうつしだされ、一方「祇園新地は、これ又、間を隔てず、遥かに落ちたり。・・・客も又、祇園町よりは少し劣りて、或ひは小商人の手代、番頭、親方の目を盗み、ひそひそ楽しまる事也。しかし繁盛、祇園町に劣らず、はなやかなる新地なり」と庶民的な賑わいを客筋であらわしています。しかしこの祇園新地も富永、末吉、元吉あたりはやがて高級路線を目指すようになり、膳所裏は庶民的な遊所の道を歩むことになります。

しかしながらこの時代、京の公許の遊所は島原で、祇園が正式な遊廓として認められたのは寛政二年(1790)でそれまでは茶屋株名義で茶立て女名目の遊を置いていたにすぎず、祇園の代名詞であった芸妓が京都に現れたのも、早くて大阪とほぼ同時期の1740年あたり、町触れに芸者が記録として現れたのは1798年まで待たなければなりませんでした。

なお、よく祇園の歴史を紹介するのに、この茶立女が客に請われ踊りや三味線を覚え芸妓になったと書かれておりますが、祇園に於いて私は別の意見、つまり芸好きで北の政所が育てたいわゆる下河原の山根子という言わば、芸能集団、つまり一種の町芸者が芸妓として廓に取り込まれていったのだと考えています。

それにしても、江戸時代の東新地あたりはどんな様子だったのか、『嬉遊笑覧』自身に膳所裏の言葉は出てきませんが、ほぼ同場所である現在の八坂神社から東大路以前の北の小堀(こっぽり)通りのようすが、「清水寺につゞきて北斗堂、霊山寺、法観寺云々、いつしか淫婦(あそびめ)・屠児(にうり)の栖居(すまい)となり、掻立てし法灯は夜店の行灯にかはり、焼しめし 香烟は樺焼の匂ひに変ず。鼠鳴が簾をくゞりて、あみ笠の後甲を抓み、暖簾が風に動て家名ぞ人を招く云々。藪の下の二八、こっぽりのぞめき云々」正徳五年(1715)の『艶道通鑑』で偲べます。ちなみに鼠鳴とは遊女などが客を呼び寄せる時まねた音、藪の下は八軒通り、即ち八坂神社から東大路以前の南の小道、ここで前述のぞめくという言葉を見ることができます。

さらにすこし遡ること元禄十四年(1701)『軽口ばなし』に「祇園藪の下の色茶屋に、さはといふやましう有」と見えますが、山衆とはすなわち遊女のことです。

つまり、内六町が1713年に開けるか開けないうちに、これらの遊女屋が徐々に現在の祇園甲部、祇園東の領域に流れ込んで来たと想像できます。その変換の様子は安永五年(1776)の『居行子』に「愚も七、八歳の頃、祇園新地もいまだ建てそろはで、そこかしこ草生しげり、薄(すすき)と家と入りまじり、まばらなりしを覚侍る。その辺今は大屋敷の売買には、千両、弐千両の価となる云々」と記されていることで知ることができます。


by gionchoubu | 2014-07-19 13:19 | 祇園東 | Comments(0)