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by gionchoubu
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祇園東ぞめき 三

これが遊廓そして花街としての祇園の歴史の始まりとなります。この流れで言えば、歌舞伎でおなじみの『鳥辺山心中』のヒロイン、おそめこそ歴史上祇園に現れた最初の女の一人と言えるかもしれません。。
この物語は寛永三年、三大将軍家光が上陸の際同行した、二条普請奉行の軽輩、菊池半九郎という二十一才の若侍が、九月二十九日、祇園の水茶屋の娘、十七歳のおそめとの別れをおしみ、鳥辺山の井戸に身をなげた実説をもとにしたものですが、おそめは茶屋の娘で=遊女という設定は、真実を知るすべはないにしても、少なくとも近松の時代にはごく自然な設定だったことが分かります。
応仁の乱後消失した祇園が復興するのは四条通りをはさんだ南側、北側、そして八坂神社の南側の清井町が最初ですが、その後寛文六年(1666)川端町、宮川町一丁目、中之町、弁財天町、常磐町、二十一軒町、今の南座辺りから四条をはさんだ縄手、川端通り間の北の部分が開発された外六町(そとりくちょう)が祇園新地と呼ばれ、さらに正徳三年(1713)清本町、林下町、元吉町、末吉町、富永町が開発され、これが内六町(うちりくちょう)、又は新家(しんや)と名づけられたのですが、この内六町のうち林下町殆どすべてと、清本町の一部、祇園町北側の一部が現在の祇園東の領域で、外六町に祇園東を除いた内六町があらたな祇園新地となり、今の祇園甲部の北側を形成しています。
つまり祇園東が田畑から誕生したのがいまからちょうど三百年前になるのですが、この内六町に(非公であれ)遊廓を形成する上でかかせない要素。茶屋渡世三十株が許されたのが享保十七年(1732)、その上納金で大和橋をかけかえました。ただし末吉、清本、富永町に人家が立ち始め、青楼が並ぶのは延享(1744)以降とされます。つまり遊郭としての祇園東が渡世を始めたのは江戸時代の中ごろとみていいでしょう。
この新地開発と株の関連をみると、これを最も得意としたのが大阪の町で、近世の大阪の歴史は新堀の掘削と、それに伴う新地開発の歴史といっても過言ではありません。
為政者はここぞという場所に堀を通すと、煮売株、旅籠株、湯屋株、茶屋株、芝居株などの権利をトランプのカードを切るが如く新地開発の尖兵として送る込み、上手に手が揃えば、曽根崎新地(北之新地)、堀江新地、島之内などの見事な役ができ、大阪の代表的な遊所に育ちました。
祇園に話を戻せば、すでに南座あたりは元和年間(1615~1624)七つの芝居小屋の興行師に櫓が許されており、大阪と前後開発されていったのですが、内六町には松湯町(現在の切り通しから巽橋まで)、薬湯町(現在の花見小路、四条上がる)などの名が昔の文献で散見するのですが、文政時代の『鴨東佳話』に祇園町に大和湯、松湯、薬湯、亀湯の四箇所の混堂(風呂屋か湯屋)が有ったと記されますので、新地開発の後、こういった株が与えられたのでしょう。
ちなみに、江戸期において風呂屋とは蒸し風呂であり、お湯に入るのが湯屋でした。
さて、祇園東はかつて膳所裏と呼ばれていたのですが、これは膳所藩の筋横通称膳所裏を中心に栄えたためで、現在で言うと富永町通りの東(東富永町)、四条通りの一本北、即ち祇園会館南の筋から花見小路までをいいます。
膳所藩邸は東大路(かつての小堀通り)、新橋通りのすこし南、花見小路(かつての薬湯町通り)の少し北、富永町通りにかこまれた四千三百五十坪の土地で、万治二年(1650)十月に創建された江州膳所藩本多の京屋敷で、亀山、篠山、高槻、郡山各藩と共に御所の守護と御所火の番を将軍より仰せ付かりました。
昔から遊郭では火事が多く、これは世をはかなんだ遊女が火をつける事も原因の一つで、吉原炎上が江戸大火の八割を占めたこと、吉原原因による吉原全焼二十一回の内十三回が遊女の手によるものとされた事を考えると、ここ祇園の密集地に消防の役目を与えられた膳所藩を置いたのは、あるいは幕府にそういう意図が働いていたのかもしれません。
