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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園ねりもの 二十九

祇園ねりもの 二十九_f0347663_12370191.jpg
      上段 村上治郎吉 下段右 伊藤一義

昭和十年春、京都市観光課のすすめもあり、祇園甲部取締、杉浦治郎右衛門氏と祇園乙部(現祇園東)取締、村上治郎氏の間で話しが出来て、七月十日は祇甲、七月二十八日は祇乙でねりものを出すことがきまり、出演者も決まり、衣装も出来上がり、番附も歌舞会と技芸倶楽部と二枚できました。

ぎをん190号(平成十九年)に杉田博明氏が寄せた「豪雨に流れた復活ねりもの」によれば、甲部は七月七日に歌舞練場で衣装をつけて足固(予行練習)をする手はずも決まっており、ルートも主に廓内を練り、場合によっては四条小橋あたりまで出、途中歌舞練場、八坂神社、円山公園で所望の舞を予定していました。

先頭は戸隠神の河合三四子で、このとき京人形の中西里君とともに甚五郎・少女岩井小末として参加予定として『京都日出新聞』の記事にものった新橋の旅館、小末の岩井小末さんは、当時舞妓として出演が決まっていたのに中止になり「そら残念で残念で」と杉田氏に語ったそうです。(技芸倶楽部、昭和十一年七月一日号によれば、その他石川とめ子が御殿お三輪、野田福丸が白拍子祇王、高橋三栄が刈萱夕しでの予定であったとの記述あり)

又、先斗町でも、若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、この明治二十六年以来、四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話までありました。

ところが六月二十九日、近年に無い大雨と鴨川の氾濫で白川の両岸、川端や鴨川の沿岸も水が溢れ、明治十四年の京都測候所開設以来始めてという雨量を観測しこの年のねりものは中止になりました。この時の話を、舞妓さんの小物などを扱う、祇園幾岡屋のご主人に何かの会でお伺いしたのですが、当時まだボンとして小間使いをされていたご主人が、この洪水で水につかったお茶屋か置屋の二階から芸妓さんを助ける活躍をされたそうです。

しかし、浮説ながら、この祇甲の練物の決定までには、廓内で反対するものも有り、大水が出なくともやれたかどうか疑問であった・・・という話があったとも緑江さんは書き加えております。

結局中止後、来年からは、祇園甲部と乙部で隔年ごとにねりものを出そうという事に決まっていたのですが、甲部では春から弥栄会館の建設が始まり、とても練物どころでは無くなり、甲部から乙部に順番を替わって欲しいと依頼があり、十一年は祇園乙部、十二年は甲部がそれぞれ単独で催す事になったのです。

祇園甲部から依頼を受ける形で「では私の方でやりましょ」と引き受け組合に戻った祇園乙部の村上治郎吉取締でしたが、乙部役員一同ねりものがどういったものか知りません。この一大スペクタクルが祇園乙部で見事復活し得たのは、役員の一人であった伊藤義一氏が、やり方衣装交渉一切を風俗研究家である吉川観方氏に任せたことが大きかったといえます。

当時古門前縄手東入という、組合事務所から五分とかからぬ所に居を構えていた観方氏は日本画家、版画家でありながら、衣笠貞之助監督「大坂夏の陣」の衣装を担当したり、時代祭りを含め色々な時代考証に携った希代の風俗研究家として知られ、花街に対しても造詣ただならぬものがあり、この方面の著書についても『京舞妓十二月』などがあります。

それまでのねりものでは出演の芸妓が後援者の人々と相談して衣装を新調しましたが、乙部は規模も小さく昔のやり方は踏襲できず、観方氏は十二月に割り当てて、立派な衣装を注文しました。

『祇園会ねり物復興記念帖』で氏は「さて今度のねり子の扮装種目、及び服具についてゞあるが、その服装は公、武、町家、演劇、遊里等にその材を借り、我国歴代の或は優美、或は壮麗なる風俗を、有識故實の上よりの考証を基としてそれぞれ新に意匠を加えたものであって、前述の諸古記録に見えたる祇園会ねりものゝ精神に力めて倣わんとし、全般としては、必ずしも最後のねりものとも見るべき明治復興の際のそれに依ってはゐないことをお断りしておく。」と述べた後、「今回の題目は、前述の如く各時代、各階級の男女の風俗を再現し、それ等を『園の賑ひ』として、雪月花、四季とりどりの景物を添へ十二月とした。」と趣旨を記しました。

今回のねりものが以前と違う点は、祇園を出て縄手を通り、三条から河原町を迂回して四条に入り、八坂神社を目指したことで、これは京都市側の強い要望があった為です。さらに芸妓に負担をかけぬ様、衣装は全て乙部事務所持ちで、大丸、高島屋、丸物、東京三越に注文しました。そして見附台の石鳥居はそのまま行列の先頭を飾りましたが、見送りの御神馬は省略しました。

後年、祇園をどりの作家として祇園東(乙部)に深くかかわった度会恵介氏は『京の花街』で乙部のねりものに触れ“ところが、これを最後(明治二十六年のねりもの)に、この夏の京の行事も姿を消していたのを、祇園東が四十四年ぶりに復活したのである。題して「園の賑い」といい、一年十二ヶ月に練り子を配したもので、当時のカネにして屋台二台に四千余円、練り子衣装に八千円もかかった。総勢三百余名、祇園町を練り歩き、「乙部の芸妓もシャレている」と評価を高めた。名妓ばかりが出場したが、老後を全うしたものはなく、妓籍をひいてからの消息は不明である”と書かれておりますが、この時誂えた先囃子の唐破風と後囃子の千鳥破風の屋台二台(竹中工務店製)は、現在八坂神社に保存されていますものの、このねりものに吉原の花魁で参加した岡とめの豊治さんは昨年2013暮れに大往生を遂げられたのを申し伝えさせて頂きます。


by gionchoubu | 2014-07-15 12:39 | ねりもの | Comments(0)