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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園ねりもの 二十三

祇園ねりもの 二十三_f0347663_11431435.jpg

この年官女に扮した加代(当時珍しいカメと呼ばれた洋犬と供に)
祇園ねりもの 二十三_f0347663_11350090.jpg
舞妓時代の加代

明治十年(1877) 七月十日、二十八日(ただしこの年、疫病流行の為、神輿洗いが十月三十日と十一月十八日に延期されたので、ねりものも延期されたのではないかと緑江さんは書いています。一方『伝説の都』で琴水はその件には触れず、予定通り行なわれた事になっています。)先行燈 園の賑、花蚊烏帽子に水干の着付をした五人の芸妓が三味線、冠に水干の舞妓が鉦と太鼓で先囃子は併せて十一人、練り子は二十二名、風流女飴売(肥塚小うの)牛若丸(田中きみ)風流五人女(鈴木梅勇、川合床勇、山本雛尾、堀井勇菊、浜谷君香)等、今回より後囃子も全て芸妓となり、幇間のねりもの参加は無くなりました。又先囃子夕神楽、後囃子伊達奴勇神楽のように囃子にも題がつきました。

今回の番附けを見ると、見世の名前が外れ、明治という事もあり練り子の苗字が入っています。明治五年十月、下京第十五区(当時祇園は下京でした)遊女芸者検番所支配人井上与三郎外十五名連署で当時の府知事長谷信篤に婦女職工引立会社(後の女紅場)に関する請願書を差し出していますので、祇園も、多くの花街がそうであったように、見世制度から、合理的な一花街単一検番制に移行したものと思われます。

琴水によれば十日のコースは夕刻末吉町を出発、縄手、富永、薬湯の町(現花見小路)、新橋からもう一回縄手、祇園町(四条)、八軒(現東大路四条下る)、神幸道、八坂神社、拝殿から北林(現円山公園)、小堀(現東大路上る)、新橋、薬湯の町で解散。後日二十八日は薬湯、富永、縄手、末吉、薬湯、新橋、縄手、祇園町、八軒、神幸道、八坂神社、拝殿、北林、小堀、新橋、薬湯、末吉の西橋の順、共に解散は翌朝未明との事です。

この明治十年のねりものでは、牛若丸に扮した田中きみが太刀を佩して闊歩の最中、俄に発病して途中倒れ大騒ぎになったアクシデントがありましたが、祇園ねりものの真髄を窺わせる様な出来事もありました。それは当時の流行妓で、山口千代と美を競い、この年官女に扮した江良加代に纏わる逸話です。
明治十一年七月に出版された、大西亀太郎が編集した『都の花競』(京都市右京図書館蔵)という芸娼妓名簿によれば、山口千代は祇園町南側の戸主で二十一歳、江良か代に至っては十六歳にして祇園町北側の戸主で、共に本名で芸妓に出ていた事になります。
ですから加代は十五の年で舞妓か芸妓としてねりもの出ていた事になりますが、当時十五の芸妓はめずらしいことではありませんでした。

五代目中村歌右衛門が『維新侠艶録』で加代を「子供の時分に見た、お加代さんほどの美人はいない。まるでお顔が光って見えたのですから」と述べています。

さて、その時のねりものですが、加代は官女として塩瀬の厚い緋の袴をはき、当時珍しかったカメ(洋犬)を従えて雨後の泥濘の道をねりだしたのですが、昆布のように引きずる長袴に泥がつき、前へ進むことがままならなくなると、付き添いの呉服屋の店員を呼び、当時千金を掛けたこの塩瀬を切らせ、そのままねり歩き、無事先のねりものを終わらせました。後のねりものは再び新調して練り歩いたわけで、この豪勢な噂がさらに彼女の名声を高めたことになりました。

この時の衣装を含め、莫大な加代のねりものの費用を一切引き受けていたのが木戸孝允ですが、このねりものの寸前、明治十年五月二十六日、京都の別宅で亡くなっています。これを知った加代は「一生男は持たぬ、祇園ねりものにも出ない。」と、半死半生の体で嘆き悲しみに包まれると、ここぞとばかり彼女を慰め、ねりものにでるよう説き伏せ、金銭面でも援助したのが木戸の子分であった伊藤博文でした。結局その後に加代は伊藤に身をまかせるのですが、三年の時を経て豪商三井源右衛門に目出度く落籍(ひか)され、木屋町三条上るの別邸で、何不自由なく一生を終えたということです。

この下り、話としては面白く、色んなところに顔を出しますが、他の幕末の志士にまつわる多くのエピソードがそうであるように、源右衛門に落籍された事以外全くのフィクションです。
緑江さんもこの話には一切触れていません。

大正十三年、祇園に有った技芸倶楽部社が発行した『技芸倶楽部』第二巻第九号に記者が加代の生涯を詳しく書いていますので紹介させていただくと・・・

加代の実家は祇園薬湯の町にあり実直な接骨師の娘として生まれ、芸の筋もよく、片山春子(後の井上八千代三世)の元で舞を仕込まれ十四の年で店出しすると、その日から素晴らしい人気、客が三四日流連(いつづけ)しても顔を見るのもままならぬ程でした。
加代が座敷に出たのは一力、魚品(有名な君尾の御茶屋)、大嘉などの一流処ばかりで、最初の旦那は魚品の常連、井上馨でした。二番目の旦那が三井源右衛門でしたが、これには加代を可愛がった大嘉の女将、お富の尽力の賜物だったようです、しかし二人の旦那とも客止めの手を打たなかったので、第三の弗旦(ドルダン)は大阪の豪商藤田伝三郎が射止め、さらに一力を介し、高鍋藩主秋月長門守の長子秋月種繁が第四の弗旦の資格を得ると、まだ二十歳あまりの青年という事もあり、加代に夢中になり、連日一力で豪遊しました。
ある日、東京から魚品に来た井上馨でしたが、何日も加代が顔を見せないので激怒、源三郎が離さないと勘繰り大嘉に怒鳴り込みに行くという事もありましたが、実際加代は一力に揚詰だったわけです。

結局、加代は秋月種繁にいったん当時の金で一千圓で落籍され東京に行ったのですが、正妻もない当主が祇園から女を連れて帰ったとして親族は侃々諤々、結局加代も、ご当家の為として身を引き京都の実家にもどるのですが、この期を逃さず手を挙げたのが、三井源右衛門でとうとう加代を落籍させ、古門前縄手東入るの妾宅で囲われ、のち東京の三井の控家、最後は京都にもどり、大正九年ごろ病死しましたが、その人柄をしのび、三井家から立派な葬式をだしてもらいました。

尚、明治九年の都踊りの七組の第一組で加代は奈良家の千代とともに踊り手として出演しています。

一方山口千代は、ねりものの番附けに名を連ねる事もないまま、こちらも西陣の小林綾造に落籍されましたが、旦那の小林が事情に失敗すると、彼女にとって本位ではない一生を送ったようです。

この二人の写真は、絵葉書やブロマイド以前の時代ですが、大原女や太夫や、お座敷遊びの姿で残り、発売当時は市井で飛ぶように売れたといいます。


by gionchoubu | 2014-07-05 11:38 | ねりもの | Comments(0)