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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園ねりもの 七

祇園ねりもの 七_f0347663_11054402.jpg

五蝶亭貞広 嶋の内ねりもの



これから花街のねりものについて考えていきたいのですが、そもそも何故花街がねりものをだしたかという問題があります。

『郷土研究上方』の中で、上田長太郎氏が、神社仏閣の附近に多くの花街が発生したのは、「先客萬来を願う花街が、人寄りのよい神社仏閣への参詣道に店を構へるに至ったのは彼等業者として最も賢明な目のつけどころであり、最も當を得た方法でもあったらうが、ただそれだけはなく、神社仏閣附近の土地は寺領になっていて、寺社奉行の管轄下に属し一般町家の属する町奉行とは、取締方法などに寛厳の差があったものだらうと考えられ、それが神社仏閣の附近に花街が出来た過程の一つだらうとも考えられる」と述べ、花街の広告宣伝にはきびしい取締りがつきものだが「さういふ風に、祭礼に花街から手古舞が出たり八乙女が出たりするのは、信仰をかねて廓の宣伝方法として採用されて来た物である。」という結論に至りました。

たしかにこう考えると、すくなくとも当初は、なにも伊達や酔狂で花街がねりものを出したのでは無く、自廓の宣伝、つまり祭礼にかこつけて、堂々と遊女の顔見世の役割を帯びていたという事ができ、これが遊廓が花街に変わっていく過程で、練り子が遊女から芸妓にとって代わり、旦那衆が大枚はたいて豪華な衣装を芸妓に与え、それこそ伊達や酔狂に旦那の見栄まで入った豪華絢爛たる練物行列になったといえます。そこで前回の宝暦元年の島之内の妓達が、娼妓か芸妓か考えていきたいと思います。従来彼女達は娼妓、すなわち遊女とされているようですが、断定的な記録は見かけないので、両方の可能性を探ってみます。

彼女達は娼妓である・・・基本的に宝暦という年間は、江戸で芸者が始めて吉原で誕生した時代、京都でも始めて嶋原に芸子の記録がでますが、両方とも公許の廓でした。大阪の公許は新町のみ、ましてや島之内は江戸でいう非公許の岡場所、廓の主役はあくまで白人と呼ばれた遊女でした。島之内のねりものは遊女の顔見世をかね、茶屋側が送り出したものである。

彼女達は芸妓である・・・大阪はすでに享保年間に芸妓(芸子)の記録があり、宝暦に書かれた『浪花色八卦』に島之内の芸子の話が載り、さらに『浪花今八卦』では、宝暦時代の芸子にはそれなりのけじめがあったが、そのすぐ後の安永年間に書かれた今八卦時代の芸子はずいぶん手ごわくなったなど、かなりの行数を芸子に費やしています。宝暦年間には島之内で芸子が台頭してきた事が分かります。当時は娼妓も芸妓も三味線を弾きましたので楽器は決め手になりません。

私は基本的に、島之内も天明(1781~1789)ぐらいまで娼妓がねりものに参加したと思っていますが、さりとて、少なくと島之内においては宝暦に芸妓が練り歩いた可能性を否定できる材料も持ち合わせていません。

by gionchoubu | 2014-05-30 12:39 | ねりもの | Comments(0)