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飛騨高山花岡遊廓

昭和六年『公娼と私娼』内務省警保局の岐阜県の欄には、大野郡大名田町には営業者十三軒に娼妓数五十三人になっています。昭和十一年に高山町と大名田(おおなだ)村が廃止して高山市が成立しているので昭和5年『全国遊廓案内』にも大名田町花岡遊廓になっているのもこの為です。

『高山市史第三巻』の遊廓の始まりよると、明治元年十一月一日「梅村知事は高山町に貸座敷業を許可し川西に有明楼、空町に江戸善、片原町に鶴夢楼を置き、三軒の抱娼妓は七人でした。この家は翌明治二年二月二十九日の梅村騒動の際打ち壊しにあい以後廃業した」とあります。

そして『高山市史下巻』には明治二十一年七月十一日に、高山町の三人と、大名田村の七人の計十人が連名で知事宛遊廓地新設貸座敷営業を願い出て、同年十二月に至り許可があったので、廓地の町名を花岡町と唱えたき故取締人往佐一郎より郡長宛届でました。

十二月二十一日届出分が取締り住佐一郎の常盤楼、娼妓千代鶴外十二名、高瀬清蔵の鶴夢楼、娼妓松風外二名、藤田政吉の松寿軒、娼妓花園他三人でした。
昭和五年『全国遊廓案内』では大名田町花岡遊廓では、貸座敷の許可地は三千五百坪に妓楼十二軒、娼妓は五十二人、店は写真式(客は写真で娼妓を選ぶ)娼妓は居稼ぎ、廻しはとらず、娼妓は甲、乙、丙で料金が変わりました。

昭和二十四年の『高山市民時報』によると、花岡廓は特殊婦人のため事務所の一部(かつての共同炊事場)を共同浴場改築する事になり、工費は約五十万円との事でした。

昭和二十五年発行の『東海北陸社交歓楽街 有名舗 電話早見表』によると花岡組合に山形屋、和喜本、仙人楼、金盛楼、三喜楼、曙、梅本、甲子、いろは、ト一の十軒が載っています。

そして昭和三十三年三月二十日発行の『高山市民時報』に「花岡園の店じまい」が有り、花岡園の特種飲料店十二軒の三十五人の女性達が三月二十五日に組合事務所で解散式をあげる予定との事でした。

業者の内旅館転業で改築中が五軒、会席料理屋転業一軒、理髪店一軒、思案中が五軒で、女性の内実家に帰るのが二十四人、結婚が六人、高山に落ち着くもの一人、料理店勤め三人、未定一人でした。
今回旅館かみなかさんに宿泊させて頂き、お手持ちの資料によると、
最初の常盤楼(初代取締り)時代は別の経営で、その後末広楼、甲子(きのえ)かみなか(上仲)楼と店名を変更されました。

又、他の店は三喜楼、いろは、金盛楼、梅本、仙人楼、和喜本楼、ト一楼、旭楼、鶴夢(かくむ)楼、あけぼの、山形屋、金亀の計十三軒と事務所でした。

日本全国の赤線業者が解散後、その多くが旅館に転業しました。ビジネス旅館ならまだしも、観光旅館への転業には、特に団体旅館としての転業は、大浴場、大宴会場、バスの駐車場、調理場確保、妓楼には押し入れがないので、布団部屋の確保、消防法の対処、大きくて六畳間の客室問題と、事実上改築が必要と思われます。

第一その土地に観光資源があるか、さらに旅館街が観光に便な場所にあるか、個人にしろ団体にしろ、風俗環境から脱却できるか、など観光旅館としての転業には多くの問題を抱えます。

そこえ行くと花岡園は高山が観光地として非常に魅力的な資源を有し、高山駅からすぐの立地、朝市や古い町並みも徒歩圏、朴葉味噌や飛騨牛などの特産にも恵まれ、さらにディスカバージャパンの波にのり、旧遊廓地で観光旅館として成立した非常に珍しいケースと思います。

花岡の特殊性はもう一つあります。花岡には芸者が一人も居ませんでしたが、花街が隣接していました。いろは旅館の所の大門(画像)からつき当りまでが遊廓、突き当り右の区域が芸者町でした。京都などでは、遊廓と花街が同居していましたし、同じ町に遊廓と花街があった場合も、別の場所に存在する例をよく見ますので、遊廓、花街が隣接していたのは、珍しいと思います。

中京の踊りの流派は名古屋の西川流が占めていますが、ここは東京の西川流との事でした。

さて、廓内の環境ですが、かみなかさんの向かいが小間物屋で、中央分離の白線の所には、柳、松、桜が植えられていました(画像)、つきあたり、今の左の病院は当時も廓の病院でした。右の駐車場には今は有りませんが、娼妓さんがお参りした神社もありました。
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石燈籠のあるこの部分は当局により洋風にせよとのお達しがあり喫茶室にしました。

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以上一階と庭
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昭和三十一年ごろ当時のご主人は従業婦すべてを養女にしました。
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一回広間にて朝食は勿論朴葉味噌
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二階私の泊まった部屋が十畳で妓楼にしては広すぎでは?と女将さんに質問したら、この画像の部屋と私の部屋を二つに分けて客室にしたとの事でした。
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唐破風の月の間、奥が亀の間
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牡丹の間
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萩の間
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娼妓は居稼ぎでしたので、ここに住みお客が入りました。
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# by gionchoubu | 2021-07-25 18:10 | 亡くなったその他の遊所 | Comments(0)

温泉芸妓のすべて その四

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                            道後温泉                          

『全国花街めぐり』昭和四年、松川二郎でとりあげられた温泉花街として、伊香保、伊東温泉、小川温泉、山中温泉、片山津温泉、道後温泉、別府、鳴子温泉、湯田川、湯の浜、東山温泉、花巻温泉なので、この中で別府温泉が温泉花街の性質を良く表していると思います。

「温泉地とのことで客筋が全国の寄せ集めであると同様、別府の芸妓も亦実に多種多様、全国からの寄り集まりで系統というものがなく、よく言えば日本中の粋を集めている。而して事実美人も相当集まって来ては居るが、遊覧地特有の何処となく落付かぬ、薄っぺらなところがあって、」と書いており、又、中央政界の立場や一流の実業家等が骨休めにやってくるので、普通無名の客は客を客ともおもわないという風があり、聊か情合に乏しいともあります。

『全国遊廓案内』には貸座敷五十七軒に娼妓は四百七、八十名で一大遊廓と有ります。

道後温泉の欄では、このあたりでは、松山芸妓が一番上品で、次が道後の町芸妓、松ヶ枝町(道後温泉)は一番下品、ただし、旅へ出て、バカ騒ぎをして遊ぶのも面白い、治外法権の別世界、徹宵、太鼓をたたいて大ぴらに騒げる所は他にない、底抜け騒ぎを演じ、そして泊まり込むと、温泉花街の面白さを書いています。

『全国遊廓案内』には松ケ枝遊廓は元湯女と称して、温泉旅館の女中が娼妓の役を帯びていたものを、風紀取り締りの必要上、明治十一年に遊廓が許可され、二十九軒の貸座敷に六十三人の娼妓がいて、その過半数が二枚鑑札と述べられています。

そして町の隅々まで遊山気分に溢れていて、花柳界には新開地の様な活気とざわめきが有ったとも有ります。

温泉地に遊郭があるのは少数派で、『全国遊廓案内』では
福島の飯坂若葉遊廓に貸座敷が七軒、娼妓五十人、(公娼と私娼では二十九人)芸者も同じ位、
湯本町遊廓は温泉と炭鉱の町で貸座敷五軒

岩手県の花の巻遊廓は芸妓兼酌婦兼娼妓の様な役割の女がいるとの事

山形県赤湯温泉は湯治客が多く妓楼三軒に娼妓は十三人、
湯温海村温海遊廓には娼妓二十人、芸妓もいる。
湯田川温泉遊廓には妓楼三軒、娼妓三十五人。
湯の浜温泉では海水浴場も兼ねる。

別府、道後以外の温泉地遊廓は比較的規模が小さく、東北に集中しているという事実も浮かび上がりました。
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# by gionchoubu | 2021-06-24 13:42 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その三

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                               坪内逍遥作 熱海の栄

熱海で長らく芸者が禁止されたのは、温泉地として、静かな環境で長逗留の湯治客をターゲットに営業戦略を組んでいたのに、間違いは無いと思います。

『歓楽郷めぐり』大正十一年発行で松川二郎は、熱海は町是に依って芸妓営業を許可しない、で芸妓は一人も居ないが遊芸師匠と名づくる若い美しい女がいて、料理屋などにも盛んに出入りする。イヤ寧ろそれが目的であるかもしれぬ、と書きました。

熱海は当時、芸者はご法度、松川二郎の言う遊芸師匠が宴席を盛り上げる様子は大正九年『熱海と五十名家』斎藤要人著に収録された『熱海是非』で坪内逍遥が書き留めています。

明治十二年から兄の湯治の看護、そして結婚した明治十九年、さらに明治三十年から度々療養で訪れ、明治四十四年頃からは九年もの間、荒宿に年間百日以上住んでおり、いわば熱海を知り尽くした文士が、大正の三年~四年に日記の余白に書いた熱海に関する会心、不会心の一つに

「名称は料理屋にして其実は然らざる家々、呼名は遊芸の師匠又は料理の女中にて其の職業は必ずしも然らざる若き女供の、年毎に増加し行くのはまだしも、それらの営業の特質上、とかく、夜に入りて、人の寝鎮まらんとする頃より、おのおの専ら活動を始め、無関係者の安眠を驚かす事。」、と記しています。

『風流抄』で、矢張り明治の末年頃から熱海を知る作家、舟橋聖一は、熱海の大旅館が衰亡したのは、滞在の長い湯治客を最上の顧客と考えて、国鉄熱海線敷説に反対したためと言われていると、述べています。

二、三日、或いは土曜日だけやって来る客は経済の余裕のない客に違いなく、交通が便利になると、そういう客が押し寄せ、経営上思わしくないというのが理由でした。

こういう状況では、とても芸妓が旅館に入るという環境は生まれることがないのは想像に難くありません。

しかし、大正九年に国鉄熱海線が開通すると、湯治場温泉熱海は、娯楽場温泉に変貌、熱海へ来る客は長くても三泊、長期客を追い払う事になる事になりましたが、その代わり、「肺患療養」の熱海と云う暗い印象を払拭する事もできました。

熱海に於ける芸者の始まりは大正初期で、当初は遊芸出稼ぎ人と半々ぐらい、人によれば二枚鑑札で働きました。

之が昭和三十年頃には芸者四百人以上の大所帯となりました。
大正中期以後、熱海に二業組合が誕生しましたので、その年こそ熱海温泉芸者時代元年と言えるでしょう。

そして、昭和四十一年、十二月の熱海芸妓置屋連合組合蔵、置屋芸妓一覧表を見ると六百八十人程の芸妓が確認され、この頃から数年が熱海花街のピークと思われます。

参照:『熱海温泉誌 熱海芸妓の歴史』松田法子著、『温泉場の私娼とその空間』松田法子著


# by gionchoubu | 2021-06-19 16:29 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その二

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温泉は長きに渡って保養、療養いわゆる湯治が目的で、これが慰安、
行楽、遊興として利用されるには、鉄道旅行の発達による温泉旅行の大衆化が不可欠でした。

国有鉄道、民営鉄道の旅客輸送量は明治23年頃から増え始め、大正に入るとその上昇カーブはさらに拍車がかかりました。

明治初期年間入浴客の全国合計は370万人が大正期には1681万人と飛躍的に伸びました。

これに対し湯女の歴史は『色音輪』に「湯女は、もと、諸国の温泉にありしがもとなるべし」とあるものの、その後江戸期に於いて、京都、大阪、江戸の町湯、町風呂の湯女が酒宴の相手を為し、色を売ったもので、ここで言う温泉芸者とは別の系譜になると考えます。

平山嵩『温泉建築』に「温泉地の旅館は元来湯治を目的としたものから次第に遊山、行楽、慰安、保養等を主なる目的とする様に変じて来た。この事実は旅館がさうせるのではなくて、時代、世相がかくさせるのである。大正より昭和にかけて特にこの傾向が著しくなったかの感がある」と、温泉の転換期を示唆しています。
『温泉芸者一代記』井田真木子著によれば、温泉芸者おかめは大正の末、湯河原温泉で者置屋兼特種飲料店の赤ペンという店に、十六才で四年年期八百円の前借金で義父より売られてきました。

正式な名まえは栄屋ですが、拡張した家の周りを赤いペンキで縫ったので通称として赤ペンの呼び名が定着しました。

赤ペンには酌婦と芸妓がそれぞれ七、八人ずつ住み込んでおり、酌婦は常時売色をし、年期で売られてきた芸妓も、年期中は随時客を取ることを強要されました。

赤ペンに付着いたとき、おかめは赤ペンの主人と年季奉公の証文とは別に、売色を含むあらゆる稼ぎによって、前借金を主人に返済するという念書もかわしました。

赤ペンの芸妓の中には、芸の修行を目的に、年季奉公でなく自由意思で働いている若い芸妓、歩合で働くベテラン芸妓も僅かにおりましたが売色は強要されませんでした。

酌婦は表向き料理屋の女中ですが、実質遊女です。昭和六年、内務省警保局『公娼と私娼』の私娼窟所在地別調に湯河原町字宮上に飲料店四、私娼数十になっております。これは上記の酌婦をさしているはずです。これに数字に現れぬ、年季奉公で働く芸妓が加わるわけです。

温泉芸者が何時から台頭してきたか、私の調べている限り、今の所この赤ペンが世に出たのが大正の初めとの事なので、明治の終わりごろと思います。

夏目漱石が『ぼっちゃん』で、道後温泉の芸者と座敷でのやりとりがあるものの、これは同輩うらなり君の送別会の席での事で、これは旅行客相手の温泉芸者というより、地元の有力者や官公庁の接待の為の土地の芸者という事だと思います。


『近代ツーリズムと温泉』関戸明子著、『東西浴場物語』
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# by gionchoubu | 2021-06-14 15:06 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その一

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                                 おかめさんとお客

いわゆる温泉芸者には「枕芸者」「芸無し」などの芳しくないイメージがつきまといました。

しかし『温泉芸者一代記』の芸妓おかめさんの話「ところで、東京の一流のお姐さんがたというのは、長唄なら長唄、常磐津なら常磐津一本槍でお稽古なさるものでして、あたくしたちとは、そこがお違いになります。あたしのような田舎の温泉芸者は、そんな風に一本だけに専念してというわけにはまいりませんの。デパートのように、なんでも広くやっておきませんと商売がたちゆかないんです。温泉場と申しますのは全国からのお集りがあるところでござんしょ。どのようなお客様がいらっしゃるかわからない。ですから、どなたにもあわせてお座敷を勤めさせていただけるように、なんでもかんでも芸を広く覚えないといけないわけでございますの。ひとつの道をきわめることのできる一流のお姐さんがたに比べますと、これでなかなか苦労なものなんでございますよ。温泉芸者と申しますのは。ふふ。」

行間には、どんなお客であれ喜ばす。楽しまさせずには帰さないという温泉芸者の自信が漲っている様です。
こういった芸能意欲といったものは、東京の浅草芸者にも言えることで、『お座敷遊び 浅草花街芸妓の粋をどう愉しむか』浅草須美著に「私はこれしかやりません」と胸を張る芸者も多い余所の花柳界からは、長唄、清元、小唄はもちろん、なかには常磐津、新内、古曲、義太夫、大和楽と、ひとりで何種類もこなす地方がそろった浅草芸者は五目(ごもく)と言われ、それは否定的な意味もこめられていたはずですが、

弥重子姐さん「芸者の一人前っていうのは、なんでもできることだよ。お客さんが何やれって言っても、出来ないって言うわけにはいかないじゃない。私の専門は長唄だけど、お客さんが小唄やるって言えば、弾けなきゃみっともないでしょ。」

ゆう子姐さん「お客さんがやりたいって言うのに、芸者ができないって言ったら、お客さんが寂しくなっちゃうのよね。だからどんな曲でも一生懸命やるようにしているの」

たとえ半玉でも、お座敷に呼ばれて入った以上、「できない」などと甘えたことは是帯に許されない。一本のお姐さんには絶対服従、ろくに覚えていない踊りでも「踊りなさい」といわれれば、隣をみながら踊る。保名姐さんが出たばかりのころ、二百人ものお客さんの前で「なんだ、お前、知らなかったみたいだな」と言われたときの悔しさ、恥ずかしさ、だから必死でお稽古せざるを得ない事になります。

さらに『窗体顶端カメラルポ 温泉芸者 お座敷ゲームとモテる遊び方』浪江洋二編の「変わり種芸者」のおかめさんと同じ湯河原の千代竜の芸は

客席の真ん中に障子を立て、ローソクをつけて部屋の電気を全部消す。客席からは、障子の向こうにローソクの灯に照らされた影が見えるだけ。ここで千代竜ネエさんは、男と女の一人二役。男と女が出合ってから、情事に進展して終るまで、その情事の模様を微に入り、細を穿って、約二十分もの間延々と演じる。途中に時々ウメキ声なぞ混ぜて、最後には紙を使う音まで入れる見事さだ。見ている者は、本当にのぞき見をさせられているような気分になり、思わずタメ息が出るそうだ。エロ・ショウの中で無形文化財的な存在だ。

芸道一筋という排他的な所謂一流処にはない、エンターテイナーの要素が一部の温泉芸者や浅草芸者にあり一種の矜持と言ってよいでしょう。
一流どころの芸者を、名門のクラシックバレリーナに例えれば、芸道に励んだ温泉芸者、は歌って、踊って、時には手品もする、ボードビリアン、エンタティナーと言えるでしょう。

参照:『湯河原温泉芸者一代記 芸妓・おかめさんのはなし』井田真木子著
# by gionchoubu | 2021-06-10 14:32 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)