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昭和33年12月の京都府の旧赤線

昭和33年12月の京都府の旧赤線_f0347663_14503472.jpg
                    猪崎新地の芸妓さん

昭和33年12月21日の京都新聞の両丹版に「赤線 その後」の記事が載り、同年3月15日に売春防止法で赤線が消えた直後の京都市を省く各旧遊郭地の様子を伝えています。

【橋本】八十軒あった業者の内四十六軒が料理屋十三、貸席三十二、カフェー、一に転業しましたが、地の利が悪い事も相まって衰退の一途をたどり、この時点で二軒廃業、最盛期一日五百人もの客が押し寄せた面影はなく、一晩で訪れる客三十人ほどを四十四業者が分け合う状況でした。

京都、大阪から多遠く遊人がおらず、新生橋本に魅力がなく、さらに業者は自らが生き残らなければならない為の生存競争から、お互いを牽制し合っているのが衰退一番の理由と分析されています。

【綾部】綾部の月見町は遊郭としての免許地ではありませんでしたが、赤線として分類されていた事で、大体の事情は察しられます。以前現在お住いの方から綾部内の本来公娼たるべき“娼妓”さんがいた、とうい話もききました。

こちらは歓楽街として再現しようという非常な意気込みで、旅館一軒、料理屋四軒、喫茶店一軒が営業、新春から広島かき料理店一軒、飲食店街(道草横町)十軒が店開きする予定、さらに現在七軒の置屋に二十人の芸妓を三十人に増やし、お茶屋も料理屋兼業もくろむ予定との事。

【福地山】猪崎新地の業者四十七軒の内、新たに二十五軒がお茶屋組合を結成、十軒程度が時計屋、風呂屋、青物屋、旅館、製綿業に商売替えしました。

来年から十年計画で“芸者さん学校”を開く予定も、立地条件が悪く四苦八苦。また勤めていた五十余人の接客婦は殆ど一時出身地に帰ったものの、再び四割程度が福知山、綾部地方の飲み屋、バーなどに戻ってきました。

【舞鶴】東地区の龍宮は有力な楼主八人がそろってお茶屋に鞍替え「龍宮お茶屋組合」を結成、初めは赤線時代の客が多く“売春”を要求して困ったが、やっと客筋もかわってきたものの、どうにか生活できる程度の収入、借金に困った一業者も三月に夜逃げしたまま行方が分からない状況。

西地区の朝代新地の三十七業者の内十六業者でお茶屋組合を結成、十業者が旅館に転業、九軒は完全に廃業しました。
この頃になると、旅館に転業の業者が酒場を開業したり、廃業した業者も自活の道を開く為にバーや料理屋を開業、なんとか舞鶴海自隊をバックに成り立っているが、地元民だけの遊び場で一般観光客はそっぽを向いたまま。

【宮津】新浜遊廓街はひところ三十数軒で接客婦は約七十人いたが、売防法制定直前の三月には二十五軒、接客婦四十二人、業種はお茶屋三軒、料理屋二軒、バー一軒、質屋二軒、旅館五軒、喫茶店二軒、飲食店二軒、そして薪炭・食料品販売、下宿、間貸、呉服行商、カメラ・科学模型店一軒、廃業二軒でしたがバーが十二軒と激増だが客は寄りつかない。簡易旅館も既設旅館のおこぼれを頂く程度。

この地方では珍しいダンスホールだけが、バーと兼業でどうにか普通の営業を続けている。

昭和33年12月の京都府の旧赤線_f0347663_22543330.jpg
昭和33年12月の京都府の旧赤線_f0347663_22540545.jpg
                         龍神遊郭

# by gionchoubu | 2022-05-27 22:57 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

西木屋町 乙女倶楽部 その三

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西木屋町で雇仲居倶楽部を経営されていた竹葉澄子さんの想い出のアルバムからヤトナさん中心の画像を集めました。
プロモーション、やとなの舞妓、お客さんとの遠出、ヌード・・・最後の画像の幟に新研の字が・・・興味が尽きません。
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# by gionchoubu | 2022-05-23 09:43 | 雇仲居 | Comments(0)

西木屋町 乙女倶楽部 その二

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帳場
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左奥にヤトナの札があります。

乙女倶楽部の最盛期にはヤトナさんも20人以上いて二階の座敷に10人くらい寝ている事もありましたが、通いのヤトナさんの方が多かったようです。

台所の奥に棚があり、食器の入った茶色の漆塗りの蓋つき箱が並んでいて、その箱を机にしてヤトナさんは食事していました。食事の支度は澄子さんがしました。

家族との接点は少なく、息子さんが二階に上がることも殆ど無かったようですが、同じ家なので、着物姿のヤトナさんが生活エリアにきて、ちいさい時は抱っこされる事もありました。

澄子さんの夫で、今回情報提供頂いた智至さんの父親は、この職業に良いイメージをお持ちで無かった様です。

正月には芸事に関して、色々な方が乙女倶楽部に挨拶にこられ、藤舎呂船もそのお一人でした。Wikipediaによれば、長唄・藤舎流・囃子方の家元で、現在は六代目で先斗町の囃子方の先生です。

画像の名前の入った札は帳場にあり、二段になっており、下から上に移動させ利用しました。天井近くの大きな名札は、さらに以前に使われていたもので、共にヤトナにお座敷がかかっているか見るものだったのでしょう。

乙女倶楽部一番のお得意さんは鶴清と弁慶楼で次が鮒鶴で、此の三軒とも同族経営でした。弁慶楼はもうありませんが嵐山弁慶もこの流れを組みます。

南禅寺菊水、祇園広島、長楽館などからも良く呼ばれました。昭和四十年代になると私が勤めるギオン福住(旅館)にもよく行ったとの事」なので、先代の女将のヤトナ感はこのときの記憶だったと思います。生存中、もっと聞き取れればよかったと今は悔やまれます。

そして、昭和四十年の後半、時代で言うと大阪万博が終った後、乙女倶楽部は終焉を迎えました。

非売品でありますが、加藤政洋研究所が2014年に発行した『加藤藤吉写真集~京都編 花街研究のパイオニアが写した昭和三0年代の街・建築・祭礼』に「新研見番京東山」、即ち下河原の新研芸妓の検番の写真が有ります。

鉄筋と思われる二階建ての、瀟洒な建物で、着物姿の新研さんが建物に入る様子が収められており、説明に、「玄関右手には、黒板のようなものが掲げられている。おそらく、お稽古のスケジュールが記されていたのだろう。」とあります。
 
そして、“「京都名物」として知られた雇仲居は、戦後、昭和30年を前後する頃から自ら「新研芸妓」と名乗って、それまでのやや奔走な業態から、花街に類する制度・組織を模倣して変容を遂げっていった。”

と実に簡潔、見事に新研芸妓の性格を言い表しています。
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                              乙女倶楽部
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ヤトナさんの靴箱
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# by gionchoubu | 2022-05-20 10:24 | 雇仲居 | Comments(4)

西木屋町 乙女倶楽部 その一

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昭和九年の『京都市商工人名録』に雇仲居倶楽部の項があり、46軒の倶楽部が載っており内訳をみると上京2軒、中京16軒、下京10軒、東山16軒、左京1軒、右京1軒となっています。

右京区は株式会社嵐山倶楽部で、ヤトナは嵐山の旅館、又、左京では南禅寺周辺の料亭や旅館に入ったと思われます。

中京は中木屋町の料亭や、当時この辺りに多くあった席貸兼旅館にも入ったのでしょう。

東山では下河原と大和大路四条下に雇仲居俱楽部が多く、今回紹介させていただく乙女倶楽部のあったのは西木屋町仏光寺上ルで、下京の10軒の内9軒はこの辺りに集中していました。

祇園や宮川町といった花街が限定された区域にしかお茶屋、置屋が営業許可されないのに対し雇仲居倶楽部は、いわば需要が有れば何処でも営業できた訳で、ヤトナが自由に何処にでも入れた事が分かります。

上記昭和九年の商工人名録や同年の『京阪神職業別電話名』で乙女倶楽部の経営者が竹葉喜市です。経営者が竹葉市兵衛になっている年代の名簿もありますが、これは喜市が先祖代々名乗っていた市兵衛に改名したためです。

ちなみに下河原にあった東乙女倶楽部の経営者はお兄さんである竹葉市次郎で、こちらも安兵衛に改名しております。

今回情報を提供してくれた竹葉智至さんによると、乙女倶楽部は大正九年に木屋町三条で営業許可を受け昭和四年に西木屋町に移転しました。

智至さんのお母さんの澄子さんは昭和七年生まれで、銀行員をされていましたが、昭和三十五年に市兵衛が他界した後に、市兵衛のご子息と結婚しました。

ところがこの方(智至さんの父)が雇仲居倶楽部の経営に興味が無く別の商売をされていたので、実質乙女倶楽部を経営していた先代の奥さんが、丼勘定で借金を抱えていたのを、水商売の経験のない澄子さんが女将となり乙女倶楽部を軌道に乗せました。

昭和三十五年当時、下木屋町には三軒の雇仲居倶楽部があり、この三軒で組合を作っていたようです。組合長が志摩さんで仏光寺木屋町下がるにあり検番をかねていたのでしょう。こちらは昭和三十七年の電話帳でみると相生倶楽部と考えられます。

もう一軒はすぐに廃業され澄子さんの記憶にありません。尚この電話帳に乙女、新研芸妓 西木屋町と下河原両方に電話番号が載っています。

ちなみに昭和九年の『京都市商工人名録』によると西木屋町、仏光寺下に雇仲居置屋業組合事務所があり主任中島直義となっていました。

その後、相生倶楽部も廃業して乙女倶楽部だけになり、乙女倶楽部は下河原安井の突き当りで下河原通りの東側の東の組合に入りました。
電話帳に西木屋町と下河原の両方に電話番号が載っていたのは丁度移転の最中だったと考えられます。



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乙女倶楽部と、東の組合の慰安旅行で真ん中のひときわ若い女性が澄子さんで右側の男性が当時の組合長の釣さんです。


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こちらは木屋町三条にあった頃の乙女倶楽部と思われる写真

# by gionchoubu | 2022-05-06 12:45 | 雇仲居 | Comments(0)

甲府若松町の花街

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                               昭和七年、桜が満開の舞鶴公園

続いて甲府の花街についてですが、『甲府街史』中丸眞治、楠裕次共著によると、甲府の芸妓は江戸時代、柳沢吉保(元禄時代辺り)のころに端を発し、柳町の飯盛り女の流れを組みました。

明治二十五年の県議会で置屋税、芸者税が決まり、二年後に芸妓置屋は全て春日町、桜町付近から若松町へ移転され“若松芸者”の名が生れました。

ですから同じく飯盛り女の流れを組み、明治四十年に新柳町から穴切に移った遊廓とは別の母体だった事が伺えます。

移転時の置屋は六軒、芸妓は十四人で全て内娘(養女)として扱われ、芸事も一流の師匠が教え込み芸妓の気位も髙かったようです。

やがて花柳界は肥大化し、大正末期には若松検番から吾妻検番が分離独立し昭和初期には両検番に六十六軒の置屋に芸者二百九十六人を数えました。

松川二郎『全国花街めぐり』昭和五刊によると、花街は若松町から東青沼に渡る地域で、待合、貸席(関西で言うお茶屋)は無く、芸妓は料理店に入りました。代表的な料理屋は太田町公園内の「望仙閣」と桜町三丁目の「開峡楼」の二軒。

芸妓にあまり美人が居ないが芸のほうでは、ぽんた、京子、駒二、吉次、らく、かえ
で、美佐子、きみ松が先ず押しも押されぬ、と松川が書いているので、やはり可なりの芸どころであったのが伺えます。

芸妓の特別祝儀(大っぴらには言えないのでこの表現、つまり芸妓と寝る事)は五円からあるが、十円乃至二十円が普通の相場で、気の利いたのは、甲府人の遊楽郷の湯村温泉に出掛ける、との事でした。

特有の歌謡は、古くからあるものに、「粘土節」、長唄の「甲斐の四季」、名勝宣伝のため新しく作曲された「甲州音頭」が挙げられていました。

『甲府街史』によると、望仙閣と開峡楼以外に三省楼、八百竹、吹よせ等芸妓の入る料亭は数十軒あり『甲府案内』昭和七年には市内の料理店二一七軒、飲食店三〇五、軒、旅館八十軒、銭湯三十四軒、そして芸妓置屋は若松町、東青沼町、穴切に併せ九十二軒の置屋に三百六十六人の芸妓がおりました。

又、明治二十五年の火災で春日町に移った後、二、三年で姿を消しましたが、関東八座の一つだった亀屋座の流れを組む若松座が土橋の近くに有りました。

その後、花街は第二次大戦中「戦時非常処置令」による料理店の休業で影響受けましたが、戦後二十三年に「甲府芸妓組合」発足時四十人でスタート、二十九年に稽古場、事務所を兼ねる「若松会館」を建設、芸妓の資質向上のための学校制度、共済制度などの充実を図りました。

平成の初め頃だと思いますが当時の老経営者がある宴席にて、

「芸者という職業の、歴史的、道徳的な問題はあるずらけんど、若街(じゃくがい、若松町)の芸者には何といっても「芸」があった、昭和三十三年からは、三味線は勿論のこと小唄、長唄、清元、常磐津などの邦楽全般、日本舞踊などを教える学校が芸妓組合にあって、それぞれの科目を専門のお師匠さんが教えた、というから半端じゃないよ、大袈裟に言やあ日本文化の担い手だ」

「それに引き換え、このコンパニオンのお嬢さんたちの会話や仕草は、教養も色気も感じないね。ただ若けりゃいいってもんじゃない、でもあんた達はこっちの方がいいずらね。」

と若社長は言われたが、本格的なお座敷遊びの経験のない世代は比較の仕様が有りませんでした。

昭和三十六年に石和に温泉が湧いたことも影響し、やがて若松町の花街は無くなりました。

甲府若松町の花街_f0347663_21024182.jpg



# by gionchoubu | 2022-04-12 21:04 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)