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by gionchoubu
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京都の遊郭の町名に関する一考察
明治になり京都の町を三条通を中心に上京・下京の二区に分けた時、千四百余の町名があり、全部は分類しきれぬものの十四の項目を田中緑江さんは『京の町名のいわれ』で、概要の説明を試みました。
これは 一、人名(了頓辻子町) 二、職業名(八百屋町) 三、樹木名(梨木町) 四、神名(稲荷町) 五、仏名(薬師町) 六、祭礼に関した名(長刀鉾町) 七、三ケ町併名(柏野町と清玄町と盛下町併せた柏清盛町) 八、対称した町(上之町、中之町、下之町) 九、寺院名(実相院町) 十、土地の名(円山町) 十一、道路名に丁目を付けたもの(本町一丁目) 十二、商家の屋号から出た町名(茶屋町) 十三、神社名(中御霊町) 十四、邸宅の名(二条殿町)で()内は例となります。
これらは云わば自然発生的なもので、重複も多く、中之町は十七町、亀屋町十一町、大国町十町と言ったぐあいですが、京都の人は何々学区の中之町と云うと分かるそうです。
この学区制も京都、WIKIPEDIAによれば・・・京都の元学区(きょうとのもとがっく)は、明治改元の前後に行われた町組改正により再編され、日本で最初の学区制小学校である64校の番組小学校設置の単位となった新たな町組(番組)を起源とする地域単位。明治期から戦中までは単に小学校の通学区域というだけでなく、小学校運営・行政機能の一部を担うものであった
京都と東京の町名を比較すると、東京(江戸)に圧倒的に~丁目が多いのは、その町名成立が京都では自然発生的が多かったのに対し、江戸は巨大都市形成の期間が短く、官主導で一気に町名を付けた為、統制上に置いて必要不可欠だったと思います。
京都の遊所の町名をみていくと、宮川町も清水新地も新地として開発されたので、いちいち区画に町名を与えるのは面倒だったのか、京都市では大変珍しい何丁目制をとっています。
余談ですが、堀川通りの東に南北に一丁目から九丁目までありますが、~一丁目でなく一丁目町~九丁目町がそのままの町名なのは面白いですね。
新地遊郭の町名の特徴が顕著なのは七条新地(その一部が五條楽園)で妙法院の領地が開かれて宝暦八年に町屋になり、新日吉神社阿弥陀峰の中腹の新日吉(イマヒエ)神社に縁のある近江
坂本日吉大社にちなんだ町名が付けられました。聖真子(ショウシンジ)町、波止土濃(ハシドノ)町、早尾町、山王町、上二之宮町、下二之町宮、上ノ三之宮町、下ノ三之宮町、十禅師町、大宮町、八王子町、新日吉町の十二町です。
公許の遊郭島原の島原は俗称で正式には西新屋敷の中の上之町、中之町、下之町、揚屋町、太夫町、中堂寺町の六町でからなり、上之町、中之町、下之町、太夫町は移転前六条三筋の町名をそのまま引き継いでおり、揚屋町には揚屋を置きました。中堂町は近くの中堂寺区域にあった非合法の遊廓を併合したからです。
伏見の撞木町恵美酒が正式名で恵む、美しい、伏見の酒をえびすにあてています。町の形がTなので人は撞木町の俗称で呼びました。五番町遊郭は芸妓もいましたが下級花街のイメージがあるので、多分大阪の高級花街北新地を頭に北新地と名を改めたものの、人は慣れしんだ五番町と呼び続けたので、敗戦後は西陣新地と再改名しております。
享保十七年に開けた祇園新地内六町の元吉町、富永町、末吉町も新地が出来た時名付けたの肝入りか関係者の頭の中に、元から吉でありますように、富が永く続きますように、末永く吉が続きますように、という願いを含んでいる気がします。先斗町は通称でこちらも護岸工事でできた新地になりますが、構成する町名に松、梅、柏、木、藤が入るのは或いは何か思いが入ってるのかもしれませんが、思い過ごしでしょう。
尚先斗町は正式な町名ではありませんが、鴨川対岸にあった二条新地に今でも新先斗町がありますが、こちらは正式の町名、名付け親がお向かいさんの繁栄にあやかろうとしたのだと思います。
女郎うなぎ福助
福助さんの先代善兵衛さんの親友某氏が、宿望の「伊勢神宮」へ行った帰りに後日の思い出にと、江戸は吉原の廊に立ち寄った所、相手の花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ帰ったまではよかったのですが、某氏には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り福助さんの先代の善兵衛さんの侠気に委せたのでした。 善兵衛さんは早速店に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手を差しのべましたので彼女も又、安住の喜びに一意専心家業の手助けに忠実に働きました。年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛さんを枕頭に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わると言う、うなぎの蒲焼の秘法極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言いのこして大往生を遂げたとの事です。花魁が伝えた鰻料理だから「女郎うなぎ」と称し、次いで六代目の現当主に至りました。
新居、芸妓置屋小松楼
傀儡(くぐつ)は日本の遊女の原型の一つとみる事ができます。
平安時代に京と東国を結ぶ東山道の宿駅には、宿泊者に売色する傀儡女(くぐつめ)がいました。流浪の民であり、人形遣いであり、芸能集団でもあり、売色もした傀儡の拠点の一つであった、橋本宿の游君に建久六(1195)年三月、源頼朝が「橋本の君に何かを渡すべき」というと梶原平三景時が「ただ杣山のくれであらばや」とつけたという話があります。
この橋本と京都府の京阪橋本と混合された人もいますが、この橋本は静岡県新居宿の橋本であります。
浜名湖の南端、太平洋に接するのが、東海道五十三次の宿駅であった新居宿で、この一部の橋本の名は浜名に架かっていた橋が由来と言われています。
鎌倉時代には遊女も沢山いた繁華の宿駅で、江戸期にも、飯盛女の名で遊女がいたのは、『艶本紀行東海道五十三次』林美一著に、「新居宿も諸艶本にも飯盛なしと記す。しかし一枚摺りの直段附類にはどれも四百文として出ているから、いたに違いない」の記述で分かります。
ただ、大変盛んであった浜松や吉田(豊橋)に挟まれ、舞阪、新居、白須賀、二川の宿駅では、ごく限られた遊女渡世を営んでいた、と言った所だったのでしょう。
この新居宿跡に現在見学可能な新居関跡、旅籠紀伊国屋資料館と並んで国登録文化財、芸妓置屋小松楼が小松楼まちづくり交流館として無料で見学できます。
新居の花街は明治の後期から昭和二十年代前半まであったようで、最盛期には芸妓置屋十一軒、カフェー・バーもあり、芸妓も五十人~八十人を数え、それを支える、養鰻、製紙業、漁師、網元らによって支えられ、さらに中央官庁街のすぐ近くの警察署、郵便局、法務局の人たちも上客として花街は盛り上がった事でしょう。
この規模の町としては最大級の花街と思われますが、浜名湖、太平洋、東西大動脈陸路の中央とすれば、富も蓄積され、その条件は整っていたと言えるでしょう。
小松楼は新居の花街の歴史といってよいと思われ、松井米吉が元紀伊国屋の裏手にあった建物を買収し置屋を開業し、大正期に現在地に移転をし、二階部分はお座敷、稽古場、離れに二階建ての置屋を併設し、小料理屋も営み、お茶屋兼置屋(寮)の構造を持ちましたが、お座敷の料理は、自前でなく、流石に仕出しだった様です。
この規模の花街では、芸妓は旅館や料理屋に入るのが多く、これだけのお茶屋(待合)機能を備えた建物があったのは全国規模で見ても珍しかったのではないかと思います。
聞き取りによると、検番(花街事務所)の確認は出来ておらず、全くの想像ですが、小松楼以外の置屋は、芸妓が営む小規模の置屋で、小松楼が江戸期の祇園の店、大阪の席のような、検番機能、お茶屋機能を備えた大店だったのかもしれません。
平成十八年に、空き家であった小松楼を町の有志が清掃、修繕を行い一般公開を行い、地域の福祉活動、町を訪れる人の交流場、市民ギャラリーとしても利用されており、花街に興味のある方や、建築に興味のある方にも是非訪れて頂きたい場所です。
小松楼の記述は、頂いたリーフレットを参照にしました。
鳴門の遊廓・花街
岡崎検番芸妓連の阿波踊り(大正末期)
『鳴門再発見』によると、港町の撫養(むや)は陸路と水路の接点にあたり、風待ち
舟待ちのために岡崎・弁財天・林崎・南浜など撫養街道に沿って居酒屋や旅館が多く生まれ、港は特産の塩・足袋・若芽・藍の積み出しがあり、昔は相当に賑わっており、これらの要素に加え、八十八か所札札所遍路関係の産業も加え、林崎(はやさき)の遊廓、岡崎の花街と二か所の遊廓、花街を育みました。
昭和五年刊『全国遊廓案内』に載る撫養町遊廓は、この林崎の遊廓で、娼妓は百人、制度は陰店、娼妓は送り込み(娼妓置屋から遊女が派遣される)と居稼ぎ(遊女の住む家に遊客が入る)両制度混在で、廻しはとらず、芸者もいるとあります。
より信頼おける内務省警保局の昭和六年の『公娼と私娼』には所在地が撫養町林崎北殿町で、貸座敷が二十一軒に娼妓が六十四人になっています。
林崎の花街(遊廓)は文明橋を東に渡って左に折れた所で撫養街道の本筋の傍らで、浜屋席、高松席、多田席、山本席、陣幕席があり、四十人程の芸妓がいたと言います。置屋に席がついている事から何かと大阪の影響が強かったと推察されます。
浜屋席には六、七人の芸妓がいて、警備の必要からか、毎晩警察官五、六人が寝泊まりしていたとの事ですが、置屋に警官が在中する話は他所では聞かないものです。
妙見山の山上にゴザをひいて芸妓が客をもてなすことも有り、「ゴザ芸者」と呼ばれた芸妓もいました。
昭和十三年に十歳で浜屋に金百円で浜屋に身売りされた芸妓玉司さんによると、五年と六年は林崎小学校に通わせえてもらい、十四歳で警察の鑑札をもらうため、警官二人、料理屋の主人二人、古株の芸妓二人による、踊り、三味線、唄などを披露、試験に合格して芸妓になりました。
現在その場所とされる所に痕跡はなにもなく、区域の近くにある銭湯跡に想いを馳せるしか無い用です。
続いて岡崎の花街ですが、こちらは娼妓がいない芸妓部門のみで、十軒ぐらいの置屋に五十人ぐらいの芸妓がいました。
昭和二十五年、昭和天皇がお泊りになられた「水野旅館」は格式が高く、常連客は浜屋と呼ばれた塩業家、足袋製造業者、若芽の卸元などでした。
創業慶応三年の「水の」さんのホームページをみると、山本五十六、吉田茂も泊まった名門旅館でした。
当時、大阪行きの汽船が三隻あり、波次第で出航が出来ないとき「芸者を呼べ」という事にになり、朝から三味線の音が響いていました。
現在、水の旧館の先には、検番跡とされる建物があり、その間にも、旅館・料理屋が軒を並べていたそうで、周辺には蔦が絡んだ、廃屋となったいくつかの建物が点在します。
実際当時鳴門には、水野のほかに、平和楼、都旅館、国の山、陣幕、米初、多田席、鳴門亭、浪花、八木、花八木、にぎわい亭、淀川など沢山ありました。
昭和三十三年、十八歳で芸妓になった美代丸姐さんは置屋有井席におり、芸妓の試験は、料理屋の役員と置屋の主人で、科目は長唄、小唄、踊り、三味線など何でもできないと合格できず、不合格になると「八分」と言われご祝儀も減らされました。
春、北灘で鯛網が始まると、漁船で現地に向かい、鯛を揚げた漁師が料理をして華やかに酒盛りする宴会が昭和四十五年ぐらいまで続きました。又阿波踊りの時は朝五時に集合して、水野から出発して料理屋を三味線で回るなど、漁港ならでの賑わいも見せました。
結婚式がホテルや式場で行われるようになる前は、各家々で結婚式や披露宴が行われており、花嫁さんが到着すると三味線で「引き込み」をしましたが、その時は芸妓が数名呼ばれ、早朝から始まり、披露宴何度もすると、最期には、疲れて三味線が弾けなくなる程続いたといいます。
芸妓は、なにもお座敷勤めだけがその役割ではなく、祭り、結婚式、地元産業にも深くかかわっていたことが興味深く述べられています。