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花街 元林院ぞめき 三

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            左の建物が元林院検番事務所、右が元検演舞場

文芸倶楽部定期増刊「奈良の遊廓」変通子によると、客の方は京種の方が優なしくて良いのであろうが、元林院の抱え主は京都仕込みの芸妓を嫌がって、成るべく大阪から仕入れました。それで風格も遊び方も、言葉も、お座敷で唄う歌の様まで悉く大阪式だったといいます。

これを裏付けるように『全国花街めぐり』に、この地は子飼から芸妓を仕立てる事は殆どなく、自前の芸妓も希、大部分置屋の年期抱妓で「半自前」とか「分け(わけ)」という制度だったとの事でした。

お茶屋で一番名の通っていたのが木辻から支店をだした米浜、そして大西、愛三郎、勢開楼、萬玉楼らが名の通ったお茶屋で、置屋を兼ねているお茶屋は自分の所でも遊ばすが、口がかかればどこでも芸妓を送りました。

お花に行くとき、多くは人力車、歩行の時は十一、二の小女郎(こめろ)が小提灯を点して送り向かいをしました。

1982年の「奈良いまむかし12」で芸妓の光菊さんは、昭和のはじめ頃、夕方四時、五時には元院林の狭い路地は着飾った芸妓であふれ、稽古している三味線、太鼓の音が絶えなかったと花街の最盛期の様子を伝えています。

そして、芸妓は十歳から十五、六歳まで芸を仕込まれる、座敷に出る前には試験があり、警察の人やら置屋のおやかたの前で三味線や踊りを見せ合格して初めて座敷に出られる、と書かれていました。

しかし座敷に出られるのは二十五、六までで、それを過ぎるとあまり声がかからなくなったとも。

「お客さんは吉野の山持ちが多かったんですが、みなさん遊び上手でしたね。三人で来たら十人の芸妓を呼んでいました。自分も楽しみ芸妓も楽しませようという粋な人が多く座敷をうんと盛上げてくれました。」と光菊さんは当時を懐かしみました。

当時、芸妓は置屋に借金して住み込んでいるので、自由に外へも行かれず、黙って遊びにでも行くと借金がかさみ、もし逃げ出したら警察の力を借りてでも探されました。

芸妓の出先は菊水楼、魚佐、同別荘、沈利亭、四季亭、月日亭、武蔵野など、魚佐旅館は最近まで奈良の修学旅行旅館だったので、泊った経験のある人も多いいでしょう。

昭和3年4月26日の「大和タイムス」に奈良市制三十周年記念祝賀が近づいているので元林院検番の芸妓連は検番楼上の演舞場で西川師匠の振りつけで、祝賀踊りや、祝賀式当日公会堂で催す舞踊の稽古に勤しんでいる様子が写真入で記事となっていました。

京都式の歌舞練場という言葉を用いず、大阪、東京で使われる演舞場という看板が掲げられていたのも、なんとなく、大阪よりの気持ちが出ているようです。

出し物の予定は、興福寺の花、七福神、四季、青陽の壽、素囃子元禄花見踊などの予定でした。



# by gionchoubu | 2018-12-09 12:56 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(1)

花街、元林院ぞめき 二

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    南市町

元林院娼が妓を廃止して、芸妓だけの花街に転進した件で『奈良風土記』の抜粋で「明治二十七年県令で女郎屋を廃止し、芸妓本位となり、娼妓極めて少数となる」の既述を紹介しました。

この年には若干の違いがあり、松川次郎著『全国花街めぐり』では明治二十四年それまで芸娼妓半々であったのを古澤知事時代に遊廓をつぶして、純然たる花街にしたと書かれています。

『郷土研究上方 上方遊廓号』では明治二十八年木辻遊廓が隣接の瓦堂町を遊廓区域に編入したとき、元林院はここに移転する事になった。併し実際移転したものはなく、元林院は明治三十二年二月末日限り廃止となり芸妓のみになった、とあります。

一番遅い郷土研究上方の明治三十二年を取り上げても大阪の北新地より早く娼妓なしの花街を誕生させた事になります。

ただ、この時代に関西に芸妓だけの花街を経営するのは業者にとって至難の業ではなかったかと思います。京都では上七軒にも祗園にも先斗町にも、昭和になっても娼妓はおりました。

芸妓はお稽古も必要、着物、楽器、舞妓から仕込むのにお金と時間と労力がかかり、検番、歌舞練場などの施設も必要です。それを支える旦那衆も必要不可欠、それに比べ、身一つでコンスタントに花名を稼ぐ娼妓は遊廓のポイントゲッターと言えると思います。娼妓を仕入れる初期投資は必要なものの、費用対効果は芸妓と比べ物にはなりません。

昭和十二年大阪の南地の芸妓が地位向上を訴えて、一部の芸妓が奈良の信貴山に立て篭った“信貴山ストライキ”が一大センセーションを呼びました。この時交渉に当った南地の取締りは、芸妓組合の承認を迫った芸妓に「遊廓がお皿なら娼妓はお寿司で、芸妓は生姜みたいなもので、偉そうにいう権利はない」と言い放ったといいます。

これは取締りの本音だったのでしょう。

遊客も、芸妓とお茶屋遊びをしてほろ酔い気分で奥さんの元へ・・・という時代ではありませんでした。娼妓のいる木辻遊廓まではそこそこの距離があります。

さて、明治四十四年に検番が出来ました。そして大正十二年隣接南市町に奈良検番株式会社が出来、元林院検番は元検又は古検、奈良県の方は新検とも呼ばれ、

元検に属する芸妓置屋十九軒。芸妓百三十五名。

新研に属する芸妓五十七名。幇間一名、やとな七十三名

やとなに関しては以前このブログで随分分書いてみました。やとなは雇い仲居という酌人の鑑札で座敷に侍る擬似芸妓の様な存在で、元林院では俗に“乙種”と呼ばれていました。

遊廓で甲乙制をとったのは大阪の南地五花街、京都の祗園、五番町などがあります。また芸妓をおかぬヤトナの遊廓、花街としては大阪の新世界、広島の竹原、三重の住吉町などが思い浮かびます。

私はこの南市のやとなこそ娼妓の役割を担っていたのではないかと思っています。


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# by gionchoubu | 2018-12-06 12:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

上七軒 大文字 勝奈さん その四

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2013上七軒盆踊りの勝奈さん

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いつも笑顔ですね。
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# by gionchoubu | 2018-12-05 12:24 | 上七軒 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 一

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                      2008年撮影

『平城坊目考』に「元林院は元興寺之北院龍華院の一坊也」とあるそうで町名の由来とされています。また興福寺の別院があったところでもあるといいます。

かつての元林院組合長の絹谷政治氏によると文化年間(1804~1817)に花街ができたようで、当時可笑亭、万玉楼、改勢楼の三軒に芸妓が十五名ほどいたと言います。

ただそうだったとしても当然遊女が主流だった街だと私は思います。

奥村菊蔵氏という人によると郡山藩と奈良町奉行の間に木辻町の池善という女郎の事で争いが起き、一時木辻の遊廓が廃止となり、そのかわりにこの町が遊廓になったといいますが公式な記録はないようです。

花街のイメージで語られる元林院も元は遊郭の時代をもちました。「藤田祥光筆録」によると奈良県は明治五年に六月隠売女体を禁止する布令を出す一方、奈良元林院に遊廓の設置を許可しました。

奈良県統計書によると

明治12年 貸座敷 9  娼妓21
13年     8    34
   14年    11    16
   15年     9     8
   16年     9     7
   17年     8     5
   18年     6     8
   19年     6    10

明治9年に貸座敷の数が娼妓より多くなったのは、貸座敷とは妓楼、娼妓置屋、お茶屋、芸妓置屋の総称なので、娼妓本意の遊郭から、芸妓本位の花街に移り変わる様子が読みとれます。

その後明治二十八年に貸座敷営業区域は木辻と郡山の洞泉寺と東岡と改められ、奈良県大字元林院は三十年二月二十八日までの期限付きで営業を許されていました。

『奈良風土記』に「明治二十七年県令で女郎屋を廃止し、芸妓本位となり、娼妓極めて少数となる」とあるそうです。

関西で一番初めに娼妓を廃止したのは、明治四十二年大花で消失したのをきっかけで明治四十三年芸妓だけの街になった大阪の北新地(曽根崎新地)だと私自身考えていたのですが、それより十五年前に元林院は花街を誕生させていた事になるのです。

参照:『奈良町風土記 正篇』、『奈良県警察史 明治・大正篇』



# by gionchoubu | 2018-12-02 17:25 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(2)

大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三

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昭和三十三年四月一日売春防止法施行直前の『大和タイムス』を読んでいくと、施行後岡町の業者が料理旅館などに転業を望んでいるのに対し、洞泉寺は一斉に廃業する事を決めました。

その理由は「洞泉寺の場合、はっきり廃業を打出したのは、歴史が古いだけに、同所に巣食うダニとの縁を切る必要があり、これを無視してさらに水商売に転業したところで商売はできず、結局一時的にも廃業し、ダニとの縁を切ろうと考えてのことらしい」とあります。

これは遊郭とその筋との切ってもきれぬ関係を言い表しているものと推察されます。

しかし、結局廃業を決めたのは十六軒中七軒でその他は旅館、貸席に転業を予定しました。

『大和タイムス』昭和三十三年二月二十八日の「買春問題座談会」で洞泉寺特殊料理組合長は

「赤線業を返上した一個の社会人として申したい。政府の業界に対する切捨て御免は目に余るものがある。Nさん(奈良市木辻カフェー営業組合長)とまったく同感だ。わたしは転業について旅館をやる。ところがどこまでが恋愛行為で、どこまでが売春行為かわからない。アベックにいちいちたづねるわけしはいかないし・・・。宿を提供したら罰せられる。いちいちアベックにたしかめていたら旅館商売はお手上げになるだろう。

また風紀が乱れるという懸念をどうするか。米国の若い青年男女の無軌道ぶりになってもよいというのか。これだけならいいが、自由に愛人を求められない人が、性のハケ口をどう求めるか。性的犯罪がふえるだろう。赤線の女が青線、白線へ流れて、法を無視する人の手におちたら現在以上の悲運にみまわれるだろう。それこそ社会は混乱して濁流の世になるだろう・」

さらに同組合長は『サンデー郡山』でも、買春防止法に対し

「悪法であると反対である。従来からも私達は営業を醜業と思ってないし、業主と接客婦はあくまで一体一だ。今度の立法によって真面目な業者は廃業するが、法をおそれぬ無茶者の手によって依然同じことが行なわれよう。一番悪い婦女誘拐、タコ部屋など今でもあるがこれらのものが増加しよう。

母と高・中小学生を待つ接客婦は子供をために働き、一ヶ月最低一万円を送金している。この人が接客婦を廃めなければならならぬということは自由意志の束縛、人権蹂躙である。小額で欲求を充たせた特殊料理店の廃止でこれからは、相手を探すのに苦労し金も高くつく。この結果一般女子に対する性犯罪の増加も考えられる。市全体としては毎日五、六十万の金が落ちていたから他の業者も影響が大きい。」

組合長の意見は全国の赤線業者の買春防止法にたいするそれをほぼ言い尽くしているようで、即ち

一、 進駐軍が来たとき一般女性の盾となって女性を提供したのに、さらにこれまで多額の税金を納めてきたのに何の補償もなく業者を切り捨てるのは酷い。

二、 今後性犯罪が増え、青線、白線に女が流れ風俗取締りが難しくなるだろう。

三、 旅館やお茶屋に転業しても、旅館の宿泊者同士の自由恋愛、芸妓とお客の自由恋愛を見極めることは実質無理なのに、この点の当局の方針が見通せない。

四、 こどもや両親を養う為、生活苦のための従業婦の生活の糧を奪うことになる。

という事になります。




# by gionchoubu | 2018-11-28 12:34 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)