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永瀬楓と宝恵駕籠

永瀬楓と宝恵駕籠_f0347663_10082140.jpg


平成になって初めての京都、宮川町の十日ゑびすで、モデル、司会、舞台もこなす東映京都撮影所俳優部の永瀬楓さんが芸妓役で宝恵駕籠(ほえかご)に乗りました。

宝恵駕籠行列は大阪の愛染堂(勝鬘院)から始まったもので、同じく大阪の今宮戎における南地五花街の宝恵駕籠が大変評判を呼び浪花の風物詩となり、今も、ミナミの芸妓さんは参加しませんものの、芸能人、役者、スポーツ選手が宝恵駕籠に乗ります。

この宝恵駕籠社参は神戸では福原の芸妓が、奈良では南市(元林院)の芸妓、そして京都は宮川町の芸妓が務めました。

何しろ宝恵駕籠に乗れるのは大変な栄誉で、一流人気芸者の証し、他の芸妓にとっても羨望の的でした。楓さんにとっても宝恵駕籠に乗るのは夢の一つだったとの事です。

宝恵駕籠が大好きで追い続け、楓さんの一フアンの私にとっても大変嬉しい日となりました。

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昭和30年1月10日の京都新聞の夕刊より(再録)

『宝恵カゴ、ホイ 都大路を練り歩く』

“今年こそは不景気を吹き飛ばそうと商売の守り神エビス様は参拝者で大にぎわい。宵えびすの九日が日曜と重なったせいもあって京都市東山区山和大路松原上ルの同神社は午前中だけで十万人の参拝者を数え、午後からは身動きならぬ人波が続いた。

九日だけで三十万、あすの十日えびすも入れれば百五十万から二百万人の戦後最高記録だと予想して本殿前には二十石入りのサイ銭ダルがすえられ、境内特設舞台“宝船”から流れるにぎやかな“えびすばやし”の音に乗って、降るような投げ銭が山を作り神社側は全くエビス顔。縁起の一本百円の福ザサも去年の倍二万を用意したがハネが生える売行き。

また名物の宝恵カゴ行列は宮川町のキレイどころ二百人を動員、朝十時社頭に勢ぞろいした二十三基がタイカゴを先頭に君長、種和ねえさんらを乗せて“ホエカゴ、ホイ”の掛声も勇ましく、大和大路―四条―烏丸通など市内目抜通りをねり歩き大丸、高島屋、丸物、藤井大丸各百貨店本社、商工会議所にあでやかな手つきで福ザザをおくった。”

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宮川町の芸妓による宝恵駕籠が中止になったのは、昭和三十六年の地下鉄工事による交通事情からで、現在は宮川町の芸妓でなく、太秦映画村の協力により、東映の女優さんが宝恵籠に乗ります。

*宝恵かごの本場であ南地五花街の大和屋の主人の伝記『阪口佑三郎伝』では宝恵籠になっていますが、ネット等では宝恵駕籠になっていますので籠→駕籠に訂正させて頂きました。


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お正月、舞妓も芸妓も稲穂を付けます。
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まわりから“きれい”の声が飛びます。
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こちらは戦前の南地五花街の宝恵駕籠、お若い芸妓さんと、男衆さんの笑顔最高


# by gionchoubu | 2020-01-10 10:16 | 宮川町 | Comments(0)

兵庫 佐比江遊郭

兵庫 佐比江遊郭_f0347663_11395049.jpg
         摂津名所図江

元禄九(1696)年の『兵庫津絵図』には佐比江(さびえ)を内海と記し、その岸が七宮神社の北に迫り湊口惣門の東にあった番所のそばまで海になっている様子が描かれています。

寛政八(1796)年~寛政十(1798)年刊行『摂津名所図絵八』に佐比江が載り「兵庫津にあり。此地は上方よりの入り口にして、常に賑し。茶屋・花魁(うかれめ)の家所々に見えて、琴・三味線をならし、旅客の袖をひく。」との説明がありました。

絵では、張り店で一人の遊女が三味線を弾き、もう一人は、当時の遊女の風として、自分が吸っているキセルを品定めしている遊客に渡している姿が見えます。

三味を弾き、床にも侍る、いわゆる二枚鑑札の妓女の姿です。

そして「兵庫髷紅おしろいの花の顔 佐比江といへど 日々に新し」と当時の俗謡がしたためられています。

『日本の髪形 伝統の美 櫛まつり作品集』京都美容文化クラブによると、兵庫髷は江戸時代前期の髪形で、兵庫の遊女から起こった「唐輪髷」の変形で、寛永(1624~44)頃に女性の髪形として普及し始め、寛文(1661~73)頃には遊女ばかりでなく、一般女性の髷としても見受けられるようになりました。

この髷の特徴は、頭頂部に輪を一つ作って根を結んだもので、「島田兵庫」「乱兵庫」「つくね兵庫」「立兵庫」等多くの種類があります。

ちなみに、この兵庫髷を横に倒したものが江戸期中期の横兵庫で、堅気の女性でなく、あだっぽく粋な女性に結われました。

その昔、雲上人が

「年を経て 濁りだにせず佐比江には 玉藻かへして今もすむべき」

と詠んだ佐比江町は、西国街道をすぐ南に控え、元禄の頃から酒楼、妓楼が軒をならべ、遊女が行きかう旅人の袖を引きとめ、弦歌さざめく中、兵庫髷に紅おしろいで、日ごと、夜毎に賑わっていたのでしょう。

天保前の遊所番付けで佐比江は五段中、上から二段目に顔をだします。

佐比江は他の遊所と併せ、幕末に柳原に移されたのですが、ことの繊細は後日に・・・

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         遊女の信仰を集めた猿田彦神社

兵庫 佐比江遊郭_f0347663_11415976.jpg
          佐比江町


# by gionchoubu | 2020-01-08 11:33 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

兵庫の遊廓、女郎隣、真光寺前、磯之町

兵庫の遊廓、女郎隣、真光寺前、磯之町_f0347663_13461478.jpg

長田港(女郎隣)
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                女郎隣
兵庫の遊廓、女郎隣、真光寺前、磯之町_f0347663_11593373.jpg
駒ヶ林蛭子神社(女郎隣)いかなごくぎ煮発祥の地の碑

平凡社『兵庫県の地名』によると長田の駒ヶ林の地図にあった女郎隣(じょろかいち)という所に、大輪田泊の繁盛した頃遊女町があり、これが磯野(之)町に移り、さらに佐比江に移ったとの事です。


又、垂水に今でも遊女塚(宝篋印塔)があります。『播州名所巡覧絵図』に「俗云に云、建武(1334〜1337)頃、筑前博多の商人竹村という物、江口(神崎)の遊女のために建てしとぞ、真実しらず、又一説に大阪の遊女下ノ関へ行に此海に溺死す、故に此塔云々」とありますので、ここに遊女町が有った訳で無いようです。

ちなみに、又一は京都の柳町二条を始め色んな遊廓作りに名を残す林又一郎の事だと思います。

延宝九(1681)年刊『色道大鏡』にはこの磯野町が日本遊廓総目、二十五箇所の第十四番目に摂津国兵庫、磯野町として載り、「兵庫の傾城町は、都を福原の京に遷されし以後より、少々出来初て、頃年にいたる。」と有ります。

ですから十三世紀の初め頃に女郎隣が出来たのでは無いかと私は思っています。

天保前の遊女町の順位を表した遊所番付けでは摂津は伊丹三本松以外では佐び江、しんこ前、兵庫磯之町が載り、これによると、上記の磯野町と佐比江は同時に二箇所として存在したことになります。

磯之町と佐び江は上から二段目、しんこ前は一番下の最下層の遊所になります。

『福原遊廓沿革誌』では宝暦(1751~1763)の頃から川中島といった今の新川薬仙寺の裏あたりに、芸者と遊女とを兼ねたような化粧の女がいて、客の招きに応じて座敷に罷り出て、お酒のお相もすれば、お閨のお伽したとしています・

さらに天保の末期から弘化の初年に掛け(1840頃)、佐比江町、真光寺前、土手下(湊町)に引店が出来て非常に繁盛したと書いてあります。

遊所番付けのしんこ前はこの真光寺前だと思います。

上記の磯之町、川中島、真光寺、又明治に出来た新、旧新川遊廓(新川遊廓は一度移転しています。後日とり上げます)は互いに非常に近く、全て海か新川周り、西国街道もこの区域を走りますので、遊所が非常に育ちやすい立地でした。


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                 磯之町
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                 真光寺前
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この地図の中に西国街道を中心として川中島、真光寺前、移転前の新川、移転後の新川、磯之町、土手下、佐比江、福原の各遊廓と柳原の花街がありました。全国屈指の遊所の密集地です。


# by gionchoubu | 2020-01-04 12:01 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

南地大和屋へらへら踊り

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 多恵さん88歳にしてこの動き

明けましておめでとうございます。今回はお正月ということで何となくお目出度いものを書かせていただきます。



明治の二十年から三十年にかけて、東京の寄席で当時若手の噺家であった三遊亭円遊がリズミカルで速いテンポのコミカルなステテコ踊りを始めて大いに受けました。男性の下着のステテコの語源はここにあります。


四代目立川談志はこれまた「二十四孝、郭巨の釜堀りテケレツのパア」というなんとも不思議な踊りを始めました。


この流れの一つであったのが万橘のへらへら踊りで、赤い手ぬぐいで頬かむりして、赤い扇子を広げて、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘという奇妙な歌を唄いました。


その後オッぺケ節で有名な川上音二郎の壮士劇の前座で、芸妓、女優としても又、川上音二郎の妻として名を馳せた貞奴が万橘のへらへらをアレンジして、そのチラリズムが受け評判になりました。


大正十二年の関東大震災の影響で世の中が不景気になったので、大阪南地五花街大和屋の主人、日本花街史の巨人と言っていい阪口祐三郎が、なにかパーッと賑やかなことをやらねば、と当時はすたれてしまったへらへらをアレンジ、散在の踊りとして華やかにし、座敷の余興に芸者衆に演じさせたのが「南地大和屋名物へらへら踊り」なのです。


この復興のくだりを昭和四十九年、松竹新喜劇の藤山寛美が舞台に挙げてDVDになっています。


桂米朝さんに直接語って頂きますと、


いずれにしても、バカバカしさの極地のようなふざけた芸である。いつぞや大和屋の芸妓衆が東京の国立劇場でこれをやったとき、客席がまるで芸術品に接するような雰囲気で、厳粛な面持ちでシーンと鑑賞されたので、演者連中はやりにくくて困ったという。


とにかくお座敷の、酒席の芸であることは、間違いない。


そのバカバカしさの極地のような芸が、洗練されていったときにはじめて
「こいつは全くしゃれたものじゃ、粋なもんじゃな」という観かたができる 


(これはお客側の問題になるが)これはある意味で非常に高度な、レベルの高いはなしなのだが・・・


以上『大和屋銘名物へらへら踊り』桂米朝より


それでは、へらへら踊りの唄の文句の一部を


√お竹さんお前はね宗右衛門町で


見た顔じゃァ見た顔じゃ見た顔じゃ


其の時に嬉しい話を聞いたげなァきいたげなきいたげな


ヘラヘラーヘ ハラハラーハ ヘラヘラノヘー


//////////////////////////////////////////////////////////////////////


さて、先日大阪のミナミから京都の宮川町に移り地方をされている多恵さんが芸妓として日本で唯一このへらへらを踊れるとのことと知り、お座敷中の座興としてその一部を踊っていただきました。


現在、へらへら踊りは大和屋が山村流にお返ししているので、正式な場では山村流の許可がいりますので、雰囲気だけ味わいさせて頂きました次第です。
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昔の関西ローカルテレビで十三の料亭三笠のコマーシャルがあり、和服のおねえさん達がこの逆立ちを広間でやっておりこれを見た人は一生忘れないのでは。

“五十櫓の何とかの上で きーんの しゃちほーこぉ 雨ーざーらし〜”みたいな歌詞でした。





# by gionchoubu | 2020-01-01 11:45 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

花隈の花街

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町誌『花隈』に荒尾親成「花隈花柳界湛上記」が収録されており、それによれば、慶応三年神戸に居留地が作られたとき、神戸より兵庫地区の方に有力者が多く、県庁も兵庫にあり、そこから湊川、宇治川、鯉川(現在の鯉川筋)と三つの川を隔てた中央から離された場所の海岸に西洋系、清国系は鯉川と宇治川の間に居を構えました。南京町は当時の清国人の市場だった訳です。

明治十年西南の役で神戸が兵隊の輸送基地になったりして取引が盛んになり、商売上手で設けた清国人は遠く祖国に家族を置いたまま、花隈の地に家屋敷や別亭を作り二号さん、三号さんを置きました。

二号さん、三号さんの中に遊芸にいそしむ人がいて明治二十年頃から花隈が色町になったという事です。

花街の成立には色んな例がありますが、このパターンは初めて出会いました。

その後、明治二十三年に火事で花隈の妾宅の大半を失い、さらに明治二十七、八年日清戦争で有力華僑が本国に続出、旦那を失った女性達によって何軒かの待合や料理屋さんが営まれ、活気を取り戻した花隈花街は発展の道を歩みました・・・

はたしてそんな簡単に事が進むのでしょうか?という疑問も湧きます。

これに答えてくれたのが加藤政洋先生著『モダン都市のにぎわい 神戸の花街盛り場孝』で、伊藤博文が県令時代に住み込んでいたというある人物の別邸があり、伊藤が兵庫県を離れた後、ここが料亭(鳴松亭)として営まれ、この開業をきっかけに、花隈に隣接していた元町にあった花街の置屋や料理屋が徐々に移転してという経緯を示してくれました。

つまり複雑な花街経営の全てのノウハウはいとも簡単に元町の業者によってもたされたという事になります。

これと入れ替わるように元町の花街も無くなってしまいました。

そして第一次大戦後の好景気、三井、三菱、住友、川崎、鈴木の財閥を始め勝田、岡崎、山下、内田等の船成金、さては政界の大物旦那に育てられ超のつく格調高い、東京の新橋と並び賞された花街まで上り詰め、名妓を輩出しました。

花街はよい旦那がいてこそ一流になるのです。つまり置屋、お茶屋の花街とお客が作った作品だと私は思います。

政治家では伊藤博文、西園寺公、桂太郎、後藤新平らも常連、最盛期には料亭、貸席百五十軒、芸妓五百名と神戸一の花柳界になりました。

しかし誕生したのが遅かったにも係らず昭和四十年代には芸妓は六十人ほどになり昭和の終わりにほぼ灯は消えかけたようです。

それでも昭和四十年代に料亭は、阿らい、青葉、いさみ、魚善、上い、千鳥屋、長駒、とり源、豊福、服部、富士の家、まえ田、松の家、みつや、森本、わかくさ、すし仕出しの花隈成駒屋、貸席、福六などがありました。

呉服屋三軒、雇仲居紹介みつわ会、花隈検番、舞踊では花柳の師匠のお宅もありました。

先日若い神戸っ子に聞いたところ、花隈にあった花街の存在は、お母さんも含めてご存知ありませんでした。

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玉垣には花隈芸妓協同組合、播磨家、玉家、十四春、松葉などお茶さんらしい名前も刻まれていました。


# by gionchoubu | 2019-12-24 16:18 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)