人気ブログランキング |


花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった大阪の游所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の游所
未分類

以前の記事

2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

> 狂すけさん そうで..
by gionchoubu at 16:08
例の角田美代子は初島新地..
by 狂すけ at 22:13
> 狂すけさん ご..
by gionchoubu at 20:58
あの大事件の主犯が働いて..
by 狂すけ at 15:10
> BIG-BIRDさん..
by gionchoubu at 16:38
中西君尾さんを調べていて..
by BIG-BIRD at 08:32
> いたみんみんさん ..
by gionchoubu at 15:20
初めまして。伊丹の住人、..
by いたみんみん at 19:51
>ぞめき様 ありが..
by ignatiusmaria0319 at 17:02
> 文車さん 実は..
by gionchoubu at 11:51

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

尼崎の特飲街 前半
at 2020-03-24 11:00
新福原遊廓誕生
at 2020-03-18 19:09
声色遣い
at 2020-03-13 10:16
法界屋
at 2020-03-09 17:01
西新開地 二葉新地
at 2020-03-07 10:31

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

尼崎の特飲街 前半

尼崎の特飲街 前半_f0347663_10575387.jpg
昭和30年10月の神戸新聞尼崎版に「市の中心から消えた紅い灯」が載りました。市内四警察署は4月から連続的に売春取締りを強行し検挙件数193件、331名にのぼりました。

この結果、尼崎市内にあったパーク街、浮世小路、難波新地、杭瀬そして進展地にあった144軒の特飲店の内6ヶ月で当局の目論見通り、初島新地に移ったもの15軒、神崎新地に移ったもの28軒、廃業したもの56軒、近く移転する予定のもの17軒、残り18軒が現在地に残ったままと有ります。

はたいて、この5箇所の特飲街はどこでしょうか?

結論から申し挙げると、昭和32年の住宅地図に尼崎市内にスタンドがあった場所が6箇所あり、ここが特飲街だったと私は考えています。

以下の情報は全て当時の神戸新聞です。

まず神田中通りのパーク街、このパークは現在のカンナミ(神田南通り)新地の一本上にあった剣戟などの芝居や映画を上映していたパーク座にちなんだものと考えられ、無許可建築が最も多く、危険な木造三階建てが32戸のうち23戸ありました。

近所の当時この近くに移り、喫茶店で働き始めた当時お嬢さんだった方にお聞きすると、パーク街の存在を知らず、お客さんに場所を聞かれたので、阪神パークの場所を教えてしまったと今でも後悔されていました。

特飲街のつもりで遊園地に行ってしまった人の面喰った様子が目に浮かびます。

昭和32年の地図では5軒のスタンドが確認できます。

次に浮世小路、竹谷小学校の真北に有り、三階の屋根からここの屋根が見えるので父兄の間で問題となりました。戦後最も早く商店が出来たと言われ、隣接の三和が主食市場で、それに平行して特飲街が作られました。

パチンコ屋、一杯飲み屋、ドブロク、カストリ、安酒が主で尼崎型ハトの街として昭和30年には市内数箇所の内、ここが最も繁昌していました。

地図では竹谷小学校に面する通りにスタンドだるま、スタンド一富士の二軒がみえるのでここが浮世小路でしょう。

パーク街と浮世小路は隣接しており阪神出屋敷駅より歩いて五分程、『全国女性街ガイド』で「出屋敷は二十三軒に七十九名、サービス屈指で尺八の名所」としているのはこの二箇所を一箇所としているのだと思います。

ちなみに尼崎にも花街がこの近くありまして、神田中通り六ノ二二九には検番があり、昭和30年に芸妓14人が遊興税値上げに憤慨、二日間ストライキをしたと新聞にありました。

一方難波(なには)新地は官公庁街難波新町にあり、オフィス街、官庁や会社のすぐ裏にあった特飲街です。ただ市は尼崎に特飲街なるものは無いというスタンス、又市警保安課でも「断じてそのようなものは存在しない」ただ市民が勝手にそう呼んでいるだけ、強いて言えば特飲街によく似た行為をやっている場所だ、と逃げの一手でした。

難波新町会と社交親友会がありました。

地図によると、難波新町三丁目に二軒のスタンドが確認できます。現在このあたりにラブホ街があり、とても無関係とは思えません。

杭瀬のスタンド街は阪神杭瀬近く、当時北杭瀬駅があった国道2号線沿いにありました。

当時の地図では7軒のスタンドがあり、卓球場やダンスホールも確認できますし、宮前公園側には松竹映画劇場がありました。

最難関、なにわ新天地に関しては後日に・・・





# by gionchoubu | 2020-03-24 11:00 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

新福原遊廓誕生

新福原遊廓誕生_f0347663_18575106.jpg


                         福原遊廓 張店    
明治三年、神戸大阪間に鉄道が敷かれることになり、その最適の場所が福原遊廓地となり、福原遊郭は移転を余儀なくされました。これが現在のJR神戸駅です。

新福原(即ち現在の場所)は人跡稀な荒涼の地で、わずか開廓以来僅か二年で移転命令が出たことにもより各楼主はむずがり、夜逃げ同様姿を消すものもありました。


ところが明治四年大津波で福原遊廓も壊滅状態になり、これが期に五月から業者は続々と新福原に移転をはじめました。


移転当時の遊女は約三百五十名、吉原に倣い大門を建て、町名も仲の町、裏通り、京町と呼び、その後京町は三十軒筋と名を替えました。見返り柳も植えたとあるので、これが柳筋となったのでしょう。


『続編 明治・大正 神戸のおもかげ集(第二集)』によると、大店として、勢徳楼、大砲楼、勢陽楼、萬国楼、宝新楼等十七軒、中店三十九軒、小店十八軒でした。


新遊廓は移転以後繁盛が続き、各楼主も移転新築に投資した借金のめどがつき始めた時、明治五年十月になって突如として政府から出たのが遊女解放令でした。


これは遊女の前借金を棒引き、国許へ帰る旅費のないものには其の旅費まで負担せよというもので、業者は嘆願を続けたものの実らず、福原は全く火の消えたありさま、大門も取り毀されました。


しかし今度は明治六年に貸座敷が許可され福原遊廓も出なおしとなりました。


ただ兵庫県が特殊だったのは明治六年六月十六日付けで市中ならば好みの場所で貸座敷途世を許すと、芸娼妓営業地の制限を解いたので、三の宮、元町、栄町に妓楼を開くものが続々と現れました。


即ち福原遊廓は明治に入って開廓した後、直ぐ移転命令→遊女解放令→津波被害さらに遊女屋がどこでも出来る様になった故、お客を上記の町の中心地に奪われました。


この新規の場所の中で一番繁昌したのが、楠公前八千代座の裏筋に出来た蓬莱長屋で、昔の引見世と同じ見世が幾つも出来、無理やり
通行人を引き込み散財させたので、“二度と行くまい蓬莱長屋、縞の財布が空になる”という俗謡が流行った程の賑わいました。


この続けさまの受難で閉店、廃業の店が相次ぎ、福原では僅かに七軒の見世が無理から大戸を空けていたに過ぎませんでした。


福原遊廓創設以来の取締だった藤田泰蔵は、あまりに廓に不運が続いたので、遂に廓務一切を放擲し姫路に移り梅ヶ坪に遊廓を開きました。これが梅ヶ枝遊廓の濫觴となりました。


参照:福原遊廓沿革誌



# by gionchoubu | 2020-03-18 19:09 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

声色遣い


声色遣い_f0347663_10153628.jpg
       祇園 白川

博望子の『洛陽勝覧』(1737)に役者物真似の部に大津屋平五郎や、大津屋平助などの名が見えますので、座敷の座興に物真似の芸で客を沸かせていたのだと思います。

祗園には大津屋とか鳥羽屋と言う幇間の見世があり、馬琴によれば、幇間は無芸大食、無用の長物と手厳しく扱っていました。

大正三年刊『東京の表裏八百八卦』杉韻居士によると、何時から声色遣いがいたか分からないとしながらも、風来山人(平賀源内、1728~1780)が「我が飯を食って人の声色を遣り」という詞を残しているので、その時代には流行していたのではないか、と推察しています。

昔劇場には木戸芸人と言うのがおり、大名題、小名題の役割で役者の声色をやり、客を呼んだのが声色使いの濫觴としています。

明治十七、八年頃には東京だけで声色遣いが七、八十人おりましたが、大正になると不景気もあり下火になり、東京と横浜併せても僅か二十四、五人になったと書かれています。

声色使いは専業とするのでは無く、昼は別の職業についていました。実際の稽古は先輩に便宜を図ってもらい、裏木戸から入れてもらい、適当な場所で見物し俳優の癖をとりました。

平素は矢場、銘酒屋、待合、料理屋、株式、米商、魚市場などで、正月や残暑の頃が収入の多い時でした。

声色するのにも縄張りがあり、他の縄張りでの仕事はご法度でした。

彼らは、自分の縄張りの得意を『穴』料理屋を『ヤチャ』祭礼を『ツリメ』銭遣い良きを『ハクイ』銭遣いの悪いのを『スッパイ』先方から断わられるのを『電話』などの通り言葉を遣いました。

『電話』は話中で駄目という意味でした。

声色を落語でやる事も昔からあり、或る説では江戸中期の立川焉馬が創意とし、三代目のしん生も声色で真打になったと云われており、昔は軒先に立って声色を遣っていたので『ボラ岩と』というあだ名が有りました。



# by gionchoubu | 2020-03-13 10:16 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

法界屋


法界屋_f0347663_16580220.jpg
神戸の二葉新地で最初に芸妓になったのは法界屋の娘でした。又大阪のじゃんじゃん横丁も昔は法界屋の縄張りでした。果たしてこの法界屋とは何物だったのでしょうか?

明治二十年頃、書生の中で月琴や明笛(みんてき)などが流行、夜も昼も下宿屋の楼上で鳴らし、中には放蕩の結果、郷里から仕送りが絶え、試験に落第、下宿屋から追い出されました。

身のふりかたに困り、編み笠をかぶり、怪しき手つきで月琴を鳴らし門付けすると、案外書生上がりという所が人の好奇心を引き、予想外に収入も多く、是を真似る堕落書生が多くでました。

法界節は長崎の丸山新地が最初で、唄の調子も全然違い「長崎の丸山芸者は何故遅い、来ると其のままお雛さんホーカイ、その癖手軽に転びます、三味線枕」というもので、一年も経たぬうちに全国至るところの都市に広がりました。

そして法界屋も書生から専門とするものが現れ、多くは芸人の失敗者や香具師の類で、楽器も月琴一張でしたが、やがて琴、尺八、蛇皮線、提琴なども加わり大一座となり、衣装も汚れた着物に白金巾の兵子帯というみじめな風姿から、唐棧チリメンの八分つきを揃いで着るものもあれば、綿入りで派手な縞のピカピカものを着るもありました。

どんな団体でも女の加わっていないものはなく、素性は興行物の太夫、地を弾く囃し方、淫売奴(じごく、即ち下等私娼)専門の女等であった。

この女達は一団の男と関係をもっていて、権力は女の方のみ強く浮気の仕放題、間夫を三人も四人も持って公然とふざけ散かし、男が妾同然で法律上の夫婦ではありませんでした。

法界節の得意場は、料理屋、待合は一向に駄目で、最上客は宿車屋の若い衆で、次が馬肉屋の女中、店頭で仕事をしている職人、理髪店などでした。
どういう情況で商売したかと見れば、上ずった黄色い声でなるたけ猥褻な歌を唄って誘いをかける。すると酒機嫌で調子づいた男たちは一同どっとどよめいて矢鱈と嬉しがり、

「ようよう如何しようてんだ法界屋さん、そんな唄を聞かせられちゃ堪(こた)えられねえや、まあこっちへ這入りな、少しお前に話があるんだ。」
こうなると占めたもので、三十分も相手に成っていると、五十銭以下のことはない。女の口車と挙動一つでは、もろく一円ぐらいは巻き上げることも出来ました。


# by gionchoubu | 2020-03-09 17:01 | 私娼 | Comments(0)

西新開地 二葉新地


西新開地 二葉新地_f0347663_10251248.jpg
昭和8年、第一回神戸みなとの祭りの協賛として二葉新地が催した「おいらん道中」
花魁、禿、金棒を引く手古舞の芸など


芸妓町になる以前の二葉(ふたば)新地は法界屋(門付けの芸能者)の亭主が家で子守をし、代わりに女房の方が三味線を風呂敷に包んで芸妓代用品として現れたといいます。

大正11年3月、芸妓置屋の認可がおりたものの、指定地の二葉町・久保町五丁目では、不景気の折認可は貰って芸妓を抱え込む勇気のあるものが無く、従来から法界屋の鑑札で稼いでいた独身の女が3,4人集まり一軒持ったぐらいという淋しいものでした。

大阪発祥といわれる法界屋は機会があれば又書いてみたいと思います。

その後すぐ、やっこ倶楽部など3軒の雇仲居倶楽部が許可され、西新開地は芸妓と雇仲居と酌婦の町になりました。

昭和に入ると商店街の形成や地域の発展と共に、二葉5丁目には置屋やお茶屋が建ち並び、二葉新地と呼ばれ、福原に対し西の検番と呼ばれ、全盛期には芸者110人、雇仲居50人、置屋30軒ありました。

客層は三菱や川崎などの偉いさんや、駒ケ林の漁師さんが多く、毎晩入りびたり家を売ってしまう様な人も出てきました。

昭和10年の調査で、大正筋及び六間道一帯の商店街が「西新開地」と称される様になりました。

芸者の検番以外に、朝日、中央、太陽、敷島、松竹の5軒の雇仲居の検番があり、昭和34年頃まで柳の多い街でした。

記されてはおりませんが、主に会社の偉いさんが芸者遊びをし、雇仲居は娼妓の役目を負っていたと思います。

二葉新地と並んで久保新地があり、久保新地は戦前6丁目にあり、戦後は5丁目の大丸屋の横丁に移りました。

二葉4丁目にはレンガ筋があり、射的やコーヒー屋(カフェーの事と思われます)があり、地獄谷と呼ばれていました。

この地獄谷は春日野新地でもお聞きしたことがあり、他の古老からもお聞きしました神戸独特の言い回しのようです。この文は『西新開地(西神戸)物語』神戸アーカイブ写真館を元に書いていますが、由来は“入ったらなかなか出てこられない歓楽街”というのがその名の由来でした。

戦後の二葉新地は又の機会に。

又、加藤政洋先生が『神戸の花街・盛り場考』で二葉新地と西新開地についての詳しい記述が有ります。




# by gionchoubu | 2020-03-07 10:31 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)