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岡山 吹屋の遊郭


岡山 吹屋の遊郭_f0347663_15171368.jpg
先日、花街の成り立ちで、かつて犬山や京都の宇治に存在した花街を私は『観光地型』に分類しましたが、これは花街のみに存在し、遊郭にはないと思います。

逆に遊廓にあり、花街には無い型に『鉱山型』があると思います。

『江戸遊里盛衰記』渡辺憲司著によるとその生い立ちは古く、秋田県の銀鉱山の院内に慶長十五年(1610)頃で、これは江戸の𠮷原より古く、『院内銀山記後編』に「当山あら町といふ処に傾城、白拍子、夜発の輩二百余人ぞ徘徊す」という下りがあるそうです。

渡辺憲司氏によれば、鉱山の中には、採掘の堀子、水を取り除く水引き、大工、技術者、鍛冶屋などの職人、米屋などの商人、逃亡者、罪人、基本単身赴任の男が中心の町で、金と欲望が渦巻けば、遊女町ができる必要条件はすべて満たしている事になります。

当然佐渡の金山にもあったわけで、元和期(1615~23)に相川の遊女町が発展しました。佐渡のゴールドラッシュの繁栄は凄まじく、人口は当初の江戸の町に匹敵し、『佐渡金山』磯辺欣三著によれば歌舞伎の創始者「出雲の阿国」も相川に渡ったらしく、さらにそれ以前、天文二十二年(1553)観世元忠が一座を率いて能舞台も行われています。

遊女の最高峰である太夫職が京の島原(六条三筋)、江戸の𠮷原、大阪の新町、長崎の丸山以外、この佐渡にもいた事を考えると、その栄華はとどまる事を知らない様相でした。

その他、石川県小松の金平金山、『色道大鏡』にも顔を出す薩摩、山カ野の金山で、ここの遊女の最高位は太夫に次ぐ天神でした。

さて、今回訪れたのは、祇園や金沢のお茶屋の壁に用いられることで有名な弁柄の産地岡山県の吹屋です。このベンガラは吉岡銅山の捨石から発見されたもので、この人里はなれた吉岡銅山に遊廓は無かったか?と以前から考えていたものの、成羽の郷土史なども見当たらず、直接訪ねてみようという事での訪問です。

この里をよくご存じの方にお聞きすると、やはり口伝になりますが遊女町はあったという事で、その方が推測する場所も聞き取りできました。

さて、今回吹屋訪問の副産物として『備中吹屋 吉岡鉱山』西本清治著の中での「むかしばなし」に明治36年に鉱山に電気が引かれた際、成羽から4~5人の芸者が呼ばれ電気の開通を祝ったとあるので、当時成羽に小規模であろう花街があったと考えられることです。




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# by gionchoubu | 2021-02-23 15:18 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃_f0347663_10574392.jpg

昨年12月デザインエッグ株式会社から出版された『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃著は水運と陸運の両方の利に恵まれ、富を得た近江商人によって育まれた八幡池田町花街の最大のお茶屋であった大高(おおたか)=後の京初が、火災から逃れた僅か一割の遺留品のみで、いかに文化の蓄積を得ていたかを知る資料でもあります。

これが大高全ての持ち物、さらに八幡花街全ての遺品となれば、如何ほどの金銭的、文化的な価値を持つか、私には想像すら出来ません。

とにもかくにも地の利に恵まれた近江の八幡、朝鮮人街道が通り、東よりに中仙道が走って大阪、京都と江戸を結び、武佐宿から八風街道が東進で伊勢をむすび、御代参街道が交差し東海道でこれまた大阪、京都と江戸を結び、琵琶湖を利用して敦賀、塩津のルート、小浜、今津のルートと富が集積する条件が、近江商人の資質を開花させ、いい旦那衆を生みました。

いい花街を育てる第一条件はいい旦那衆が絶対条件といっても過言ではありません。一流の芸妓はいい旦那が自然と呼びよせるものなのです。

『艶やかさを求めて 八幡の花街』は大茶屋、大高を中心とした八幡の花街、池田町の歴史、八幡花街運営の仕組み以外にも示唆に富んだ多くの画像を収録しているのも大きな魅力です。

大高の火災遺品である花街に纏わる行燈、燭台、月琴、三味線、飾り箏、大鼓、鼈甲笄、簪・・・そのいくつかは実際山本さん宅をお訪ねして拝見しましたが、大高の御茶屋としての格を知るに十分の品度を持つものと推察されました。

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃_f0347663_10591134.jpg

さらに嶋原の太夫の解像力の高い画像は私個人として、非常に嬉しいサプライズでもありました。

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃_f0347663_10583074.jpg

そして、山岡鉄舟、頼山陽、勝海舟、桂小五郎、佐久間象山、忍向

月照、を始め幕末・維新を彩った志士・文人・墨客書画書簡遺品の数々は今後の解析が待たれます。

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃_f0347663_10594286.jpg
                      松菊は桂小五郎の号



もう一つ、直接八幡花街とは関連無いものの、日本の遊里史に一石を投じるであるかもしれない二曲一隻の「誰ヵ袖遊楽図」、かねてから六条三筋の遊里を描いているとされる「彦根屏風」の流れの一つと考えられ、美術的価値もそうでしょうが、当時の遊女の装束を知る上でも、遊里風俗を知る上で貴重な発見ではないのでしょうか?

『艶やかさを求めて 八幡の花街 料理茶屋に遊んだ江戸から明治の志士、文人、墨客』山本晃_f0347663_11035129.jpg

著書の山本晃さんは、数年前より八幡花街に関する件で連絡をとり合い、お会いしたこともあり、この本の産みの苦しみを知っているだけに、出版の運びは私にとって、一種感動の思いでした。


本書はカストリ出版で購入できます。https://kastoripub.stores.jp/items/5ff53c5672eb462631132a9c

https://kastoripub.stores.jp/items/5ff53c5672eb462631132a9c



# by gionchoubu | 2021-02-17 11:09 | 亡くなった滋賀の遊郭

犬山の花街

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以前このブログで花街・遊廓の類型を求めました。それで行くと、犬山にあった花街は観光地型に分類できると思います。京都でいうと宇治が観光地型のはずで、旦那衆など、当初京都から芸妓をつれ遠出で遊びましたが、これは可なりの出費になるので、便宜上宇治に検番を立ち上げた人がいました。


観光地型は花街にのみごく僅か存在し、遊郭にはないと考えています。

『犬山市史 通史編下』によると、犬山花街は、何時から有ったかは書かれていませんものの、明治末期から盛んになってきた、とあり大正元年『犬山の栞』犬山壮年会犬山支部発行に、小遊楼、稲葉家、西岡、金席楼など十数軒に七十人の芸妓がおり、主な料理屋は井筒文、新大丸、常春亭、山田屋、鳥金などで全てが大本町、図師町にあり、大本町へ行くと言えばすぐ耽溺の意味とかいてありました。

犬山町は日本ラインの中心地として、桜の名所地として観光・行楽客が多く、昭和の初めに、昭和初期には料亭だけで、彩雲閣、岩の茶屋、迎帆楼など四十軒以上、開進亭、美人座、ライン食堂などカフェー・食堂の主なもので十三軒ありました

ライン下りの観光客などで旅館も繁盛、犬山ホテル、彩雲閣(料亭を兼ねる)八勝閣、不老閣など主なもので九軒ありました。

昭和の初め、上大本町、下大本町、図師町に芸妓置屋二十数軒を数えました。この頃が最盛期でしょう。

犬山花街の終焉は昭和六十三年で、春駒、玉の家、勝の家、松むら、玉生など十三軒が花券番(花検番)を解散しました。

犬山の花街に私が興味を持ったのは昭和四年『全国花街めぐり』に取り上げられていたからです。著者で希代の遊び人であった松川二郎が愛知県で項目を設けたのは名古屋市と犬山だけでした。

犬山の花街の特異性を松川は、人口僅か一万三千の小都市に、芸妓置屋二十数軒、芸妓百二三十名も数えた事としています。

待合や貸席(つまりお茶屋)はなく、芸妓は料理屋や旅館に入り、花街は大本町、後に櫻楽園と呼ばれた地域にあり、その両側には桜、楓が植えられていました。今はそういった木々もありません。

芸妓の入る料理店、旅館数も四五十軒に及び、芸妓は川下りの案内や、鵜飼見物のお供、川行(かわゆき)に、夏は一夜泊まりの旅客と一夜の恋に陥ることも少なくなかったようです。

花街の制度としては、芸妓は名古屋から仕入れており、髪の結いかた、着物の着方、踊りの手ぶりまで全て名古屋式、西川流という事でしょう。半玉も二人で座敷を務める「二ツ一」でした。

代表的な料理屋でもあり旅館でもあったのが上記の彩雲閣で、名鉄の委託経営、建築も立派で室の構造もよく多人数の宴席に適していました。ただし芸妓は十二時まで、泊まりはさせなかったという事でしょう。花街の制度でも明し花(泊まり)は有りませんでした。

不老閣や錦水楼は眺望がよく、井筒文は元成瀬家の御用料理を勤めた犬山一の古い料理屋、不二三亭には一面の藤棚があり、犬山名所の一つでした。

昭和四十六年の住宅地図を見ると、幸楽さんと接する南、通りからみると、開進亭の二軒先に犬山芸妓寮検番がありました。

明治三十八年、犬山壮年会発行の『犬山』に、犬山は風光明媚の地で自然の感化の為か人情都雅で、和歌、俳諧、囲碁、将棋が盛ん、犬山の人で、生け花、茶の湯の心得無い人は稀、女児は朝芸として、琴、月琴、踊、中でも三味線を教えられたとあります。聊か手前味噌の感じは拭えませんが、花街文化を育む土壌があった、と考えることも出来るかもしれません。




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                    花街跡で時折みる屋根に水の鬼瓦
                    火災防止の鬼瓦


# by gionchoubu | 2021-02-16 13:11 | 亡くなった東海の花街 | Comments(0)

豊田と足助の花街 後編

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豊田の花街は、名古屋市の花街の踊りが西川流であったように、豊田の花街も西川流で、検番は神明町にあり、壁に赤と黒で芸子の名前を記した札が釘に下げられていて、お座敷に出た場合は赤にしておきました。

豊田の検番は二階建てで板付きの稽古場があり、踊り、三味線、鳴り物など、月に一週間、朝十時から昼までが稽古の時間でした。二列に並んで習い、上達すれば前の列になりました。

芸が出来ても、出来なくても花代は同じであるものの、昔の旦那衆は歌を習っており、芸が出来なければいいお座敷に呼ばれませんでした。

一人前の芸子に成るまでの期間を京都式に舞妓や東京式に半玉(はんぎょく)と呼びました。中京の花街の舞妓は「ふたついち」というシステムがあり、二人同時に店だしをすると、一人でお座敷に出ず、二人決まったペアで出ました。帯は文庫で長くたらしました。

ふたついちは中京花街の特色と思われていますが、幕末の祇園の名簿をみると、二つ一や二つ市が書かれていますので、元は京都のシステムが中京で残ったと私は見ています。

足助の場合、お客は県の事務所関係や市町村の連絡協議会、医師会や校長会、山の仕事をする人などで、お座敷が忙しかったのはお祭りの四月、十月、香嵐渓が色づく十一月は日曜日ごとには、演舞場で踊りました。

豊田でも戦後は十八歳からしか、お座敷に出られなくなり、舞妓、半玉の制度はなくなり、最初から芸子としてお座敷にでました。これは京都以外の、東京を含め、たぶん全ての花街も同じと思います。

京都はなぜOKかというと、これは法律の解釈の違い、としか言いようがありません。その理由はかつて私もブログで載せました。

昭和三十年代から四十年代にかけて、トヨタ自動車の景気の良い時期の豊田の料理屋は毎晩が宴会で、料理を運ぶのは、上女中・仲居で。間に合わなければ芸子もビールなどを取りにきて手伝いました。

この頃は豊田には芸子の数も100人を数えました。お座敷遊びは「トウハチ拳」「相場拳」「トラトラ」「金毘羅船船」など、「野球拳」はジャンケンで負けると一枚ずつ着物を脱ぐお遊び、ただ、芸子は小物を多く身に着けているので、絶対に負けませんでした。

昭和四十年代の豊田では、まだスナックの無い時代で、二次会に芸子を連れて行くのはバー、居酒屋、小料理屋で、豊田香桜連という組織の中に、料理屋組合と芸妓組合があり、料理屋組合に入っていなければ、芸子を連れていけませんでした。

又、部屋貸で、料理はよそからとる待合も別にあり、元は内密な会合などで利用された施設ですが、「連れ込み旅館のような所」と考えてよさそうです。

昭和五十年になると、芸子の数もだんだん少なくなり、平成になると芸妓組合も解散。置屋株も紙屑になりました。最後には芸子八人で和風コンパニオン派遣の「香桜連」を立ち上げたものの、いつしか無くなりました。」

芸子は「スナックに女の人が出るようになって廃れた」とされます。スナックの女性は芸をしないので、修行もいらないし、兄弟分に気を遣う事も必要ないという事でした。

新修豊田市史書にかれてないものの、もう一つの要因はカラオケの普及で、客に歌わす地方の三味線も必要なくなりました。

ライフスタイルの変化、娯楽の多用性など花街衰退の原因は幾つも挙げられます。しかし全国の花街が解散の憂き目をみた直接の原因は上記の二つに尽きると思います。

豊田の芸子さんに対して偏見も多かったらしく、確かに客と簡単に寝る枕芸者もいたが、そうでない多くの芸子は悔しい思いをしたといいます。町を歩いていても奥さんから声をかけられない、身内が結婚するときに困るの芸子をやめた、という人もいました。

所謂温泉芸者のように、限られたコミュニティとは違い、都市型花街で、一流ではない花街が被ったこういった風潮も、花街全般を見ていく上では必要かもしれません。

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# by gionchoubu | 2021-02-08 11:37 | 亡くなった東海の花街 | Comments(0)

幕末の勤皇の志士と京都の花街 後編


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それでは、当時の京都の遊廓の仕組みを書くと、まず頂点に嶋原があります。江戸の𠮷原、大阪の新町と並びその中で頂点に立つもので、幕府直轄で根本とされ、京都の他の遊廓は、例えば二条新地は島原の出稼ぎ(支店)いうステータスです。さらに二条新地の出稼ぎが先斗町です。同じように上七軒、祇園、七条新地などが嶋原の出稼ぎで、後の五番町は内野と呼ばれ、上七軒の出稼ぎ、宮川町は七条新地の出稼ぎというわけです。


嶋原遊女の最上級が嶋原太夫で、大名、豪商などが相手で、単に美しいだけでなく、踊り、演奏は勿論の事、茶、花、詩歌、俳諧、書道、文学、中には絵画まで達する者もいました。太夫を揚げるのに当時の庶民の給料一年分かかり、なにより揚げる方にも、教養、素養がいるので、一般人の手の届くとこには居りませんでした。

この太夫が、嶋原に移る前の六条三筋時代、出雲阿国の歌舞伎を受け継いだのがここの遊女で、これがあまりにセンセーショナルで、人身を大いに狂わせたので、幕府は体制維持の為、女性の演劇を一切禁止以後歌舞伎も男だけの世界になりました。

太夫を頂点として、嶋原には天神、鹿恋(かこい)、半夜、端女郎(はしじょろう)などの序列があり、鹿恋以下はいわゆる女郎さんでした。

この太夫は当初、高尾太夫の様に、江戸の吉原にもおりましたが、悠長な公家文化が馴染まなかったので、後に芸は見せない妓女、見せかけは同じだが、体だけを売る花魁になったのです。装束などが似ていて、太夫と花魁がそっくりなのはその為です。

さて幕末に時を進めると、長州の久坂玄瑞と嶋原の芸妓辰路の恋が有名で、角屋の敷地には、「長州藩志士久坂玄瑞の密議の角屋」の碑がたちます。

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西郷隆盛などの勤皇の志士たちも、軍用資金調達の為、鴻池、加島屋などの豪商を角屋に招き、しばしば饗宴を催しました。

 輪違屋に桂小五郎の書がありますが、当時輪違屋は角屋の様な揚屋でなく置屋、現十代目御当主に伺ったところ、輪違屋の太夫が、揚屋で桂小五郎に書いてもらったとの事です。

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その他にも角屋を密議の場などで利用した勤皇方には坂本龍馬、山縣有朋、伊藤博文、品川弥次郎、井上聞多、大隈重信、僧 月照などの名を上げられます。

一方、壬生の屯所近くの壬生寺の所に下等な壬生遊廓が明治初めまでありました。新選組が通ったという話は聞きませんものの、行ってないと考えるのも不自然です。上層部は行かなかったとしても、一部は通ったんじゃ無いでしょうか。

近藤勇や芹沢鴨は島原一等の揚屋である角屋に出入りしており、芹沢鴨は酒乱で、水口藩との宴会で、角屋の自分に対する扱いが悪いと暴れだし、鉄扇で手当たり次第什器などをたたき壊し、二階の手摺を酒樽に浸けるなど悪鬼のような所業で暴れまわった挙句、角屋の主人に一週間の営業停止を命じました。

この日、芹沢鴨は帰った後、女郎と同衾している所を近藤勇一派に粛清されました。

このまえ大阪の新町遊廓の、歌舞伎でも有名な名家吉田屋でも、自分の思い通りに成らなかった芸妓を、さすがに殺すことは出来ず、髪を切り落とす暴挙があり、角屋は吉田屋と親戚なので、急遽は早駕籠で芹沢惨殺を知らせました。

さて、幕府は、盤石の体制を揺るがすものあれば、西国大名と想定し監視を怠りませんでした。又内から体制を蝕むものとして、我々のイメージとは違い遊廓には大変厳しい態度で臨んできました。

これは実に的を得た慧眼と思います。しかし流石の幕府も西国大名の勤皇の志士たちが、まさか遊廓から昇華した都の芸妓と手をむすび、最後には江戸幕府に終止符をもたらすとは夢にも思わなかったのでは無いでしょうか。


# by gionchoubu | 2021-02-06 14:43 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)