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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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女郎うなぎ福助

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 埼玉県小川町の女郎うなぎ福助さんで、鰻いただきました。吉原花魁仕込みの鰻重がとても美味しかったのと併せ、東郷青児風の裸女のタイル、太鼓橋、干支の彫りの天井など見どころ一杯ですので超お勧めですよ。

福助さんの先代善兵衛さんの親友某氏が、宿望の「伊勢神宮」へ行った帰りに後日の思い出にと、江戸は吉原の廊に立ち寄った所、相手の花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ帰ったまではよかったのですが、某氏には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り福助さんの先代の善兵衛さんの侠気に委せたのでした。 善兵衛さんは早速店に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手を差しのべましたので彼女も又、安住の喜びに一意専心家業の手助けに忠実に働きました。年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛さんを枕頭に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わると言う、うなぎの蒲焼の秘法極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言いのこして大往生を遂げたとの事です。花魁が伝えた鰻料理だから「女郎うなぎ」と称し、次いで六代目の現当主に至りました。


*福助さんのホームページの由来をほぼそのまま使用させて頂いております。

# by gionchoubu | 2024-03-04 19:14 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

新居、芸妓置屋小松楼

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傀儡(くぐつ)は日本の遊女の原型の一つとみる事ができます。

平安時代に京と東国を結ぶ東山道の宿駅には、宿泊者に売色する傀儡女(くぐつめ)がいました。流浪の民であり、人形遣いであり、芸能集団でもあり、売色もした傀儡の拠点の一つであった、橋本宿の游君に建久六(1195)年三月、源頼朝が「橋本の君に何かを渡すべき」というと梶原平三景時が「ただ杣山のくれであらばや」とつけたという話があります。

この橋本と京都府の京阪橋本と混合された人もいますが、この橋本は静岡県新居宿の橋本であります。

浜名湖の南端、太平洋に接するのが、東海道五十三次の宿駅であった新居宿で、この一部の橋本の名は浜名に架かっていた橋が由来と言われています。

鎌倉時代には遊女も沢山いた繁華の宿駅で、江戸期にも、飯盛女の名で遊女がいたのは、『艶本紀行東海道五十三次』林美一著に、「新居宿も諸艶本にも飯盛なしと記す。しかし一枚摺りの直段附類にはどれも四百文として出ているから、いたに違いない」の記述で分かります。

ただ、大変盛んであった浜松や吉田(豊橋)に挟まれ、舞阪、新居、白須賀、二川の宿駅では、ごく限られた遊女渡世を営んでいた、と言った所だったのでしょう。

この新居宿跡に現在見学可能な新居関跡、旅籠紀伊国屋資料館と並んで国登録文化財、芸妓置屋小松楼が小松楼まちづくり交流館として無料で見学できます。

新居の花街は明治の後期から昭和二十年代前半まであったようで、最盛期には芸妓置屋十一軒、カフェー・バーもあり、芸妓も五十人~八十人を数え、それを支える、養鰻、製紙業、漁師、網元らによって支えられ、さらに中央官庁街のすぐ近くの警察署、郵便局、法務局の人たちも上客として花街は盛り上がった事でしょう。

この規模の町としては最大級の花街と思われますが、浜名湖、太平洋、東西大動脈陸路の中央とすれば、富も蓄積され、その条件は整っていたと言えるでしょう。

小松楼は新居の花街の歴史といってよいと思われ、松井米吉が元紀伊国屋の裏手にあった建物を買収し置屋を開業し、大正期に現在地に移転をし、二階部分はお座敷、稽古場、離れに二階建ての置屋を併設し、小料理屋も営み、お茶屋兼置屋(寮)の構造を持ちましたが、お座敷の料理は、自前でなく、流石に仕出しだった様です。

この規模の花街では、芸妓は旅館や料理屋に入るのが多く、これだけのお茶屋(待合)機能を備えた建物があったのは全国規模で見ても珍しかったのではないかと思います。

聞き取りによると、検番(花街事務所)の確認は出来ておらず、全くの想像ですが、小松楼以外の置屋は、芸妓が営む小規模の置屋で、小松楼が江戸期の祇園の店、大阪の席のような、検番機能、お茶屋機能を備えた大店だったのかもしれません。

平成十八年に、空き家であった小松楼を町の有志が清掃、修繕を行い一般公開を行い、地域の福祉活動、町を訪れる人の交流場、市民ギャラリーとしても利用されており、花街に興味のある方や、建築に興味のある方にも是非訪れて頂きたい場所です。

小松楼の記述は、頂いたリーフレットを参照にしました。

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二階芸妓の稽古場スペース

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松井米吉
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ここは一階
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                              芸妓寮があった場所


# by gionchoubu | 2023-01-11 11:10 | 亡くなった東海の花街 | Comments(0)

鳴門の遊廓・花街


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                             岡崎検番芸妓連の阿波踊り(大正末期)


『鳴門再発見』によると、港町の撫養(むや)は陸路と水路の接点にあたり、風待ち

舟待ちのために岡崎・弁財天・林崎・南浜など撫養街道に沿って居酒屋や旅館が多く生まれ、港は特産の塩・足袋・若芽・藍の積み出しがあり、昔は相当に賑わっており、これらの要素に加え、八十八か所札札所遍路関係の産業も加え、林崎(はやさき)の遊廓、岡崎の花街と二か所の遊廓、花街を育みました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』に載る撫養町遊廓は、この林崎の遊廓で、娼妓は百人、制度は陰店、娼妓は送り込み(娼妓置屋から遊女が派遣される)と居稼ぎ(遊女の住む家に遊客が入る)両制度混在で、廻しはとらず、芸者もいるとあります。

より信頼おける内務省警保局の昭和六年の『公娼と私娼』には所在地が撫養町林崎北殿町で、貸座敷が二十一軒に娼妓が六十四人になっています。

林崎の花街(遊廓)は文明橋を東に渡って左に折れた所で撫養街道の本筋の傍らで、浜屋席、高松席、多田席、山本席、陣幕席があり、四十人程の芸妓がいたと言います。置屋に席がついている事から何かと大阪の影響が強かったと推察されます。

浜屋席には六、七人の芸妓がいて、警備の必要からか、毎晩警察官五、六人が寝泊まりしていたとの事ですが、置屋に警官が在中する話は他所では聞かないものです。

妙見山の山上にゴザをひいて芸妓が客をもてなすことも有り、「ゴザ芸者」と呼ばれた芸妓もいました。

昭和十三年に十歳で浜屋に金百円で浜屋に身売りされた芸妓玉司さんによると、五年と六年は林崎小学校に通わせえてもらい、十四歳で警察の鑑札をもらうため、警官二人、料理屋の主人二人、古株の芸妓二人による、踊り、三味線、唄などを披露、試験に合格して芸妓になりました。

現在その場所とされる所に痕跡はなにもなく、区域の近くにある銭湯跡に想いを馳せるしか無い用です。

続いて岡崎の花街ですが、こちらは娼妓がいない芸妓部門のみで、十軒ぐらいの置屋に五十人ぐらいの芸妓がいました。

昭和二十五年、昭和天皇がお泊りになられた「水野旅館」は格式が高く、常連客は浜屋と呼ばれた塩業家、足袋製造業者、若芽の卸元などでした。

創業慶応三年の「水の」さんのホームページをみると、山本五十六、吉田茂も泊まった名門旅館でした。

当時、大阪行きの汽船が三隻あり、波次第で出航が出来ないとき「芸者を呼べ」という事にになり、朝から三味線の音が響いていました。

現在、水の旧館の先には、検番跡とされる建物があり、その間にも、旅館・料理屋が軒を並べていたそうで、周辺には蔦が絡んだ、廃屋となったいくつかの建物が点在します。

実際当時鳴門には、水野のほかに、平和楼、都旅館、国の山、陣幕、米初、多田席、鳴門亭、浪花、八木、花八木、にぎわい亭、淀川など沢山ありました。

昭和三十三年、十八歳で芸妓になった美代丸姐さんは置屋有井席におり、芸妓の試験は、料理屋の役員と置屋の主人で、科目は長唄、小唄、踊り、三味線など何でもできないと合格できず、不合格になると「八分」と言われご祝儀も減らされました。

春、北灘で鯛網が始まると、漁船で現地に向かい、鯛を揚げた漁師が料理をして華やかに酒盛りする宴会が昭和四十五年ぐらいまで続きました。又阿波踊りの時は朝五時に集合して、水野から出発して料理屋を三味線で回るなど、漁港ならでの賑わいも見せました。

結婚式がホテルや式場で行われるようになる前は、各家々で結婚式や披露宴が行われており、花嫁さんが到着すると三味線で「引き込み」をしましたが、その時は芸妓が数名呼ばれ、早朝から始まり、披露宴何度もすると、最期には、疲れて三味線が弾けなくなる程続いたといいます。

芸妓は、なにもお座敷勤めだけがその役割ではなく、祭り、結婚式、地元産業にも深くかかわっていたことが興味深く述べられています。


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林崎文明橋
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                       地元の方にお聞きすると、遊廓は安立寺を正面に左最初の道との事ですが全く面影を残しません。
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岡崎、水野旧館

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岡崎検番跡と近所の方に情報頂きました。
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# by gionchoubu | 2022-11-14 10:22 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

昭和33年12月の京都府の旧赤線

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                    猪崎新地の芸妓さん

昭和33年12月21日の京都新聞の両丹版に「赤線 その後」の記事が載り、同年3月15日に売春防止法で赤線が消えた直後の京都市を省く各旧遊郭地の様子を伝えています。

【橋本】八十軒あった業者の内四十六軒が料理屋十三、貸席三十二、カフェー、一に転業しましたが、地の利が悪い事も相まって衰退の一途をたどり、この時点で二軒廃業、最盛期一日五百人もの客が押し寄せた面影はなく、一晩で訪れる客三十人ほどを四十四業者が分け合う状況でした。

京都、大阪から多遠く遊人がおらず、新生橋本に魅力がなく、さらに業者は自らが生き残らなければならない為の生存競争から、お互いを牽制し合っているのが衰退一番の理由と分析されています。

【綾部】綾部の月見町は遊郭としての免許地ではありませんでしたが、赤線として分類されていた事で、大体の事情は察しられます。以前現在お住いの方から綾部内の本来公娼たるべき“娼妓”さんがいた、とうい話もききました。

こちらは歓楽街として再現しようという非常な意気込みで、旅館一軒、料理屋四軒、喫茶店一軒が営業、新春から広島かき料理店一軒、飲食店街(道草横町)十軒が店開きする予定、さらに現在七軒の置屋に二十人の芸妓を三十人に増やし、お茶屋も料理屋兼業もくろむ予定との事。

【福地山】猪崎新地の業者四十七軒の内、新たに二十五軒がお茶屋組合を結成、十軒程度が時計屋、風呂屋、青物屋、旅館、製綿業に商売替えしました。

来年から十年計画で“芸者さん学校”を開く予定も、立地条件が悪く四苦八苦。また勤めていた五十余人の接客婦は殆ど一時出身地に帰ったものの、再び四割程度が福知山、綾部地方の飲み屋、バーなどに戻ってきました。

【舞鶴】東地区の龍宮は有力な楼主八人がそろってお茶屋に鞍替え「龍宮お茶屋組合」を結成、初めは赤線時代の客が多く“売春”を要求して困ったが、やっと客筋もかわってきたものの、どうにか生活できる程度の収入、借金に困った一業者も三月に夜逃げしたまま行方が分からない状況。

西地区の朝代新地の三十七業者の内十六業者でお茶屋組合を結成、十業者が旅館に転業、九軒は完全に廃業しました。
この頃になると、旅館に転業の業者が酒場を開業したり、廃業した業者も自活の道を開く為にバーや料理屋を開業、なんとか舞鶴海自隊をバックに成り立っているが、地元民だけの遊び場で一般観光客はそっぽを向いたまま。

【宮津】新浜遊廓街はひところ三十数軒で接客婦は約七十人いたが、売防法制定直前の三月には二十五軒、接客婦四十二人、業種はお茶屋三軒、料理屋二軒、バー一軒、質屋二軒、旅館五軒、喫茶店二軒、飲食店二軒、そして薪炭・食料品販売、下宿、間貸、呉服行商、カメラ・科学模型店一軒、廃業二軒でしたがバーが十二軒と激増だが客は寄りつかない。簡易旅館も既設旅館のおこぼれを頂く程度。

この地方では珍しいダンスホールだけが、バーと兼業でどうにか普通の営業を続けている。

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                         龍神遊郭

# by gionchoubu | 2022-05-27 22:57 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

西木屋町 乙女倶楽部 その三

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西木屋町で雇仲居倶楽部を経営されていた竹葉澄子さんの想い出のアルバムからヤトナさん中心の画像を集めました。
プロモーション、やとなの舞妓、お客さんとの遠出、ヌード・・・最後の画像の幟に新研の字が・・・興味が尽きません。
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# by gionchoubu | 2022-05-23 09:43 | 雇仲居 | Comments(0)