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橋本遊郭ぞめき その七

f0347663_15055980.jpg
昭和33年3月15日 京都新聞より

赤線きょう千秋楽 あすから消える“橋本の灯”千二百年の歴史に幕 貸席組合は大衆温泉へ衣がえ

全国の赤線はきょう十五日で姿を消すが、八幡町の橋本遊郭も一斉に店じまい、十六日午前十一時からは組合講堂で業者と授業婦が集り「橋本遊郭解散式」を行うことになった。同遊郭の生れたのは神亀元年、これで千二百年三十余年の歴史に終止符をうつ。

同遊郭には現在七十八業者があるが、うち十七軒は従業婦が一人もおらず、このところ開店休業の有様―。しかし営業しているというものの、引手を出せないためか最近のお客は顔なじみもお得意ばかりなので、楼主の方も最後とあって花代を割引したりしてサービスに努めている。

また中には、料理屋への転業準備にかかり、店先には部屋つくりの砂や大工道具が置かれ、職人が昼夜の別なく出入りしているなかで客をとる風景もみられるがさすがに転業を控えてあちこちの電柱には従業婦の職業に一役かってか「求女中」や「仲居募集」の広告がはってある。

一方橋本貸席組合(増田末吉組合長)では、いまある組合講堂を利用して大衆的なラジウム温泉にすることを決め、組合員らの共同出資で経営することになった。

ラジウム温泉の計画は、橋本の地を大衆的なものにしていこうというところから考えられたもので、岐阜県多治見市の某鉱山会社の協力を得てラジウムを含んだ砂を買い、いまある役三百坪の講堂を改築して砂フロや温泉を造ろうというもので転業後の橋本に活を入れるものとして期待されている。

そして二日後の十七日の京都新聞では

『立派に更正して 八幡 橋本遊郭の解散式』

綴喜郡八幡町橋本遊郭従業婦互助会(高熊夏江会長、会員二百二人)の解散式は十六日午前十一時半から貸席組合講堂で行われ、千余年の紅灯の灯を消した。

この朝、従業婦たちは朝ブロで身を清めたのち、二百人のほとんどがフリ袖姿の和服会場に集った。

まず来賓として田辺警察署長、府婦人相談員らから「立派に更正して下さい」とお祝いの言葉が述べられ、また高熊会長は涙を浮かべながら「善悪は別として永年住みなれたこの地もきょう限りと思うともう胸がいっぱいになって・・・・。これからはどんな惑いにも負けず強く生きて行きましょう」とあいさつ、別れを惜しむ従業婦たちで一時は沈黙が続いた。

最後に立派に更正をするため万歳を三唱した。なお同貸席組合(増田末吉組合長)から従業婦らに帰郷費として一人二千円、同互助会から九百円の二千九百円が贈られた」。





# by gionchoubu | 2018-05-25 15:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 赤線

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全国を駆け巡る“花街ノスタルジア”さんのサイトによればこの辺りが水口検番跡

内務省警保局が編纂した『公娼と私娼』によると、昭和五年の甲賀郡水口町に営業者数十五軒、娼妓十人となっています。この営業者数は貸座敷のことで、これは娼妓置屋、妓楼、芸者置屋、お茶屋、これらの兼業者を総計したもので、娼妓数より貸座敷が多いのはこの数字に表れない芸妓が多かった事を示唆しています。

同じく昭和五年発行の『全国遊廓案内』で「水口遊廓は滋賀県水口町にあって関西本線柘植から草津線に乗車、更に岐阜川駅で近江鉄道に乗って水口駅へ下車する。妓楼、其他詳細な事は判明していない」が全文で実にそっけないものでした。

同署他の滋賀県の遊廓の遊興制から察して、娼妓は廻しをとらない大阪方式で、又遊客が娼妓を選ぶのは写真でなく、実際妓楼内で対面して女を選ぶ陰店を張っていたのは間違いない所だと思います。

昭和のころになると打寄せた不況の波と、戦時体制への移り変わりでだんだんと衰微の道を辿り、戦争末期には大部分が転廃業を余儀なくされました。

戦後は赤線の名で業者の数も十二・三軒までもどしたものも売春防止法の発行で水口石倉新地も法の前に終止符を打つことになったのです。

廓は平和、なると、一富士、立花、大正、若松の六軒で九人の従業婦が最後の稼ぎをやっていましたが昭和三十三年二月二十八日にその幕を閉じました。

二十七日夜から二十八日にかけては名残を惜しむ遊客で平日なのに紋日なみの賑わいを見せ、三月一日午後から同町魚庄で解散式をあげ元従業員は各楼主から一人当たり五千円~一万円の餞別が渡され、その後は帰郷、旅館勤め、女中とそれぞれ新しい門出につきました。

業者の方も旅館三軒、下宿二軒、飲食一軒の転業希望を県に申し出でているものの、三月中にハイヤー、質屋、マージャン屋などへの転業をも考えていました。

県では水口石倉新地の開放は業者と従業員が少ないため案外問題ないとみていたようです。

『艶本紀行東海道五十三次』の著者、林美一が石倉新地が解散した四年後の昭和二十七年に訪れたとき、建物が手入れされていない為、薄汚い一郭になっており、中には一階が物置みたいになっている家さえあり、

「赤線のあとは、どこへ行っても栄華盛衰のあとをまざまざと見せつけられるものだが、ここは特にわびしい思いがした。」と述べました。


# by gionchoubu | 2018-05-22 11:01 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 高倉新地

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当時の貸座敷、志乃ヽめ旅館

慶応から明治初年にかけてはますます栄え、この時代は水口女郎の名が街道筋の話題を賑わしたといいます。

しかし明治維新後に藩主加藤氏が去り、鉄道敷設、さらに海路の便が開かれ、旅人は旧街道を通らなくなり商況は大いに衰えました。

そのため『甲賀市史第四巻 明日への甲賀への歩み』を見ると明治二十二年西村利一が初代水口村長に就任すると、遊郭と米穀取引所の設置を計画し村では誘致が難しいと町へ昇格させました。

明治二十年頃から遊郭設置の願書を県二再三提出するも中々認可されなかったので、兼ねて県会議員もかねていた西村は県の警察部の機密費削減を復活させる代わりにとの条件を出し、とうとう明治二十七年新遊郭の認可をとりました。

これが石倉新地で街道筋の飯盛旅籠で余命をつないでいた女郎や町に散らばっていた遊女をあつめて明治三十二年に町外れに誕生したのです。

明治三十二年一月十一日付けで、水口遊郭創業事務所から十五日に丸金楼で開業を祝う宴席の案内が発送されています。(甲賀市蔵)

昭和三十三年三月一日の滋賀日日新聞によると、このとき町の有力者だった中村又兵衛、荒川松冶郎、中西伝兵衛、大村利兵衛らが発起人として尽力したといいます。

新遊郭の設置にあたっては、かつての飯盛旅籠の一部で女郎屋として余命をつないでいたもの等、町にちらばっていた遊女を集め、旧本陣の一部を取り壊し四軒の遊女屋を建てました。中でも長盛楼は吉原遊郭の大まがきを真似て豪壮な建築でした。

そして遊郭の入り口にあたる中島町に米穀取引所もでき、遊郭は大いに賑わいました。ただし米穀取引所の方は運営が難しく、日露戦争直前の不況もあり、明治三十六年に解散しました。

明治末期から大正にかけて業者も二十軒に増え、芸妓約三十人、娼妓約二十人の花街に成長し、芸妓は京都の祗園とも交流も深く名妓と呼ばれるものの少なくありませんでした、と紙面にありますが、『滋賀県八日市市八日市新地遊郭』三露俊男著が公的資料に実数を求めた資料では貸座敷数が明治四十一年に十一軒、大正元年十三軒、昭和元年十五軒(娼妓二十一人)となっており、こちらの数が正しいはずです。

この頃が石倉新地の全盛期で、政党はなやかな頃、選挙となれば廓も大繁盛、芸娼妓も政友派、民政系に別れ互いに道で出会っても口もきかないという始末。
貸座敷も看板こそあげませんでしたがこの両党にわかれました。

こういった環境にあった彼女達はなかなか気骨に富み、町の繁栄策とあれば自腹を切って盛装をこらして町を練り歩き、総出の手踊りなども買ってでました。

こういった気前のよさにうつつを抜かし入れあげた町の一流どころに倒産騒ぎが相次いで出来たものもその頃でした。





# by gionchoubu | 2018-05-20 14:49 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 華の作坂

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                     高札の辺りが“華の作坂”町

水口宿でも作坂町を中心に、旅籠町、湯屋町、本町一帯は“華の作坂”と呼ばれ、旅人達が遊女と絃歌さざめき戯れて、朝ともなれば一夜の契りで別れを惜しむ旅人と遊女で、当時水量が多かった野洲川べりの屋型船にあでやかな彩りを添えたといいます。

明治の初めまで酒席でよく唄われたものに“京屋のおよしは馬より強い、諸国大名みなのせる”というものがあり、これは寛政年間(1798~1801)水口の京屋という旅籠屋にいた、よしという名の美人で評判の飯盛のことを唄ったものだといいます。

『諸国遊所見立値段附』には、あふみ水口四百文とあります。これを他の五十三次の宿場女郎の値段とくらべると、浜松、六百文、吉田、四日市、岡崎七匁、
小田原十匁、宮十匁より、白須賀、掛川、亀山、見附、五百文などと比べると、石部、藤枝と並び水口四百文はすこしお安めといったところです。

安政年間(1854~59)になると国事多難の折から水口で宿泊する旅人は最も多く旅籠は繁昌を究め、一戸五人の遊女では足らず、女中などの名目で女を置きました。

幕末の水口藩と京都の島原との話題を二つ、

島原輪違屋で、青年時代の伊藤博文となじみをかさね、和歌・書道にすぐれた作品を残し、安政二(1855)に発刊された宮古現存和歌者流梅桜三十六家選、木版の一枚刷りにも紹介された桜木太夫。

この桜木太夫を見受けした京都奉行同心森孫六が安政の大獄で勤皇の志士を捕らえたのが恨まれ、文久二(1862)年九月二十三日、土佐・長州・薩摩の暗殺団に石部宿で大河原十蔵、上田助之丞、渡辺金三郎と共に殺され、森、渡辺、大河原の首が京都粟田口の刑場に竹につるされてさらし者にされました。

もう一つは以前このブログで紹介させていただいた逸話です。

文久三年(1863)近江の水口(みなぐち)藩の公用方が会津藩の公用方に、新撰組の乱暴狼藉は目に余る、という様な話をしました。これを受け新撰組の上部にいる会津藩は、新撰組に注意をいれました。

これを聞いた新撰組局長の芹沢鴨は部下を水口藩に向かわせ、その公用方を引き渡せ、とねじ込みます。水口藩邸では詫び状を入れることでその場を収めました。

しかし、その場しのぎの詫び状の件が水口藩主に知られると首が飛ぶと水口藩士は思い直し、間に人をたてて、詫び状を戻してくれと芹沢に頼みました。

そして水口藩は島原の角屋に芹沢らを招待して手打ちの席を設けました。総勢100人を超える規模、島原の芸妓まさに総揚げの大宴会です。

この席で、最初は機嫌よく楽しんでいた芹沢ですが、飲む程に酒乱の悪癖が顔をだし、角屋の仲居が自分を避けているのを感じ、普段からの角屋側の自分への扱いに対する不満が爆発したものと見えて、部屋に飾ってあった太鼓を二階から投げ落とし、「尽忠報国」と書かれたいつも持ち歩く鉄扇で飾り壺は叩き潰す、さらには階段の飾り欄干を引き抜き、開下で振り回し、帳場から台所まで悪鬼の如く手当たり次第壊しまわり、最後に角屋徳右衛門に七日間の店じまいを申しつけました。

水口藩士も幕末の一幕“芹沢鴨 島原角屋での乱暴狼藉の場”で脇役として登場したことになるのです。

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水口宿の入り口三筋町の真ん中の道が東海道
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       湯屋町         

# by gionchoubu | 2018-05-16 10:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 宿場女郎

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   水口宿

渡辺寛は『全国女性街ガイド』の貴生川の欄に「国宝的な草葺きの女郎屋が六軒建っていて、女たちも古典的存在。草津線で草津から三十五分のちか間にあるのに、お訪(おと)なうものは風ばかり。」の一文に誘われて以前貴生川を歩いたもののそんな雰囲気は微塵もありませんし記録も一切残りません。

思うにこれは貴生川町を含むその先の水口町の高倉新地を指していたものと思います。

水口の遊里は明治に誕生したこの高倉新地とその前身にあたる江戸時代に東海道五十三次の一宿であった水口宿の宿場町の遊里の時代がありました。

愛知の岡崎宿や吉田宿などと同じように、水口の遊里は城下町型と宿場型の二面をもつ複合色里でした。つまり遊客は街道の通行者以外に城下に住む侍、町人達もなじみとなっていたと考えられます。

『東海道名所記』に宿場女郎が旅人の胸倉を捕らえ無理に家に引き込み

「これはいかに、まづ物を言わせよ」

と旅人を有無を言わせず捕らえる様子が書かれているそうだし、

淫水亭開好という物騒な名の人が書いた『東街道五十三次』の水口に

「此宿にやどりをもとめ翌日は早都入りにて道中のおじゃれも今夜かぎりと、めしもり二人呼て大洒落にしゃれ、其夜は主従とも陰茎骨かぎり犯のめし、足も腰も口も陰茎もはっつり草臥打伏(くたびれうちふし)けり。」

と、明日は京都に入るので、羽目を外すのもこれが最後と、これまた物凄い事がかかれているそうです。

年代的に遊女関係を中心に水口宿の歴史を見ていくと、

慶長六(1601)年東海道に宿駅宿次制がとられ、水口宿は本宿ときまる。

やがて飯盛女の名で遊女が跋扈したらしく

寛文九(1669)年の代官、猪飼次郎兵衛条々には「一、遊女一切抱置候間鋪事、」という一項がはいります。

その後また次第に飯盛女は盛んになったので。

明和九(1772)年三月再び藩主加籐氏から町奉行の手で禁止されました。

十年後の天明二(1782)年旅籠屋から「宿場維持の為相当の冥加金を納入するから飯盛女を置かせてくれ」と嘆願するとこれが認められ一戸あたり五人の遊女(飯盛女)が認められました。

幕府令では一戸あたり二人なので、ずい分思い切った政策といえるでしょう。

ただしそれ以後藩士が旅籠屋へ出かけて遊興することは厳禁されました。

参照:艶本紀行 東海道五十三次 林美一著






# by gionchoubu | 2018-05-14 12:36 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)