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大津、柴屋町ぞめき 十四
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大津、柴屋町ぞめき 十四

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                       雪の柴屋町

前回に引続き、滋賀日日新聞二月十二日号より・・・

売春防止法全面施行を前に、滋賀県の赤線業者の転業職種として一番希望が多かったのはお茶屋でした。

県売春防止対策本部への届出によると、県内の転業職種は、お茶屋五十五、旅館五十四、料理店三十二、下宿十一、飲食店六、間貸、マージャン屋、あっせん業者一、廃業二でした。

お茶屋希望の業者の目論見としては、客席に芸者を呼び酒食を提供しようというもので、今までの貸席の営業許可でそのまま続けられると多寡をくくっていました。

ところが、これが売春を前提とした偽装転業につながると考えた警察側は一枚上手ですべてお見通し、貸席は料理、飲食を行うことが出来ない、もし業者が飲食物を提供することを建前としているのなら「貸席」としてでなく「料理屋」の許可申請をとれ、今まで出来たのは黙認していたからだが、四月からは一切認めないという厳しい姿勢をとったのです。

これはどういう意味かと言うと、業者の頭にあったお茶屋は貸席と料理屋を兼ねたもの(全国では京都府だけが認めていた)ですが、これは、貸席では芸妓を呼んでもいいが、飲食してのドンチャン騒ぎはもっての外、貸席ではお茶でも飲みながら、芸妓の三味線、踊りでも鑑賞するか、商談にでも利用するしかない事になるのです。

又、二つ以上の風俗営業、もしくは、風俗営業と旅館、公衆浴場、芸妓置屋、雇仲居倶楽部、共同住宅との兼業、併置は認めないという方針も伝えました。警察は偽装転業を芽生えさせさせないという強い意志の元、決して抜け荷は許されないという考え抜かれた方針を提示したのです。

しかしながら、この二つ以上には芸妓置屋とお茶屋も兼業できなくなるので、一月に貸席業者十六軒が大津花街組合を結成したものの、この花街組合に所属の三十四人ネエさん専門の置屋を別に作らなくてはならなくないという問題も出ました。

さて、滋賀日日新聞は三月二日の社説で「白線への移行を防げ」の表題を掲げこの問題に触れています。

赤線は戦後、旧遊廓免許地で売春行為に罰則が伴わない区域、青線は赤線以外で街娼が跋扈する地域、それに対する「白線」はパイセンと呼び、この記事と同紙、二月十一日の記事を併せ読むと、白線は売春防止法施行後の旧赤線を差すようです。

赤線は広辞苑に載りますものの、青線、白線は見出しがありません。赤線、青線はわりに知られた言葉ですが、白線も説明無しに新聞に書かれているのを考えると、当時は一般に使われていた様です。

社説では、一部の小料理屋などが必要以上に多数の仲居、女中のたぐいを抱え込み、中には遠隔地まで「玉を買いに」出かけているものもあるようで注意が必要、需要者側の男性の自覚と良識によって健康な社会を作らなければいけないと望んでいました。



# by gionchoubu | 2017-01-20 13:40 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十三

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                      柴山町の売物件


昭和三十三年四月一日売春防止法完全施行直前において、滋賀県の旧遊廓、つまり赤線が、行政の指導の元、業者や従業婦がどんな状況にあったのかを、滋賀日日新聞は克明に追っていきます。

二月六日の紙面では、婦人相談所が一月中に赤線の全従業員戸別訪問したところによると、従業員は昨年末三百一人だったのが、一月末には二百五十人程度に減少、このうち帰郷希望者が百七十人と圧倒的に多く、ついで芸妓希望者が二十五人くらい、結婚するもの十五人ぐらい、その他女中、仲居希望十二、三人、成り行きまかせ、と答えたもの三十人ぐらいだと伝えてます。

県対策本部は、業者が提出した従業婦の転職希望を絡み合わせて実態をつかみ、今後の対策を練る模様。

県下の七つの赤線では、二月まで従業婦を全員解放、三月中に転業準備しようと、一月四日の県貸席連合会で申し合わせましたが、業者の中には三月中は営業しても罰せられないことを良い事に、店を閉めて裏口営業を三十一日まで続けるところも多いいだろうとの事でした。

二月九日には、「売春防止法でネコご難、ネコとりが横行、一匹百円で三味線の皮」にという文言が紙面を踊り、赤線の従業婦から芸妓に転業するなら当然三味線の需要が上がるという事で、一ちょうの三味線が二匹のネコの皮を使ことからネコ取りが横行、八日市市内のある町内では数十匹いネコが数日間に二匹になったとか、愛知郡のある町ではネコが殆ど居なくなったとか、毛は筆になり、肉が加工業や屋台にカシワとして流通するなど、売春防止法余波を伝えています。

二月十一日にも「帰郷組にも指導、県が売春問題で厚生部会」の見出しが載り、一月末に滋賀県の赤線従業婦は二百三十三人で、その内訳が大津、八十九人、草津、三十三人、水口、九人、近江八幡、三人、八日市、二十人、彦根五十四人、長浜二十五人とのことで、転職希望者の希望職種の詳細がのりました。

帰郷希望者百四十四人のうち、県内二十三人、帰郷が百四十四人とのことでした。当然滋賀県より他府県の赤線等で働いて帰郷するものもいるので、他府県との連絡を密にして、再びこの道に入らないように婦人相談所が職業斡旋等に努力するとの事でした。

三十年近く遡りますが、昭和五年六月調べの『公娼と私娼』によると、滋賀県の娼妓三百八十八人の内、滋賀県出身者は二十九人、僅か7%です。矢張り地元で娼妓になるのは可也の抵抗があり、この7%も士が県内でも地元から離れた所で働いていたと見てよいでしょう。

この年、滋賀県出身者の娼妓二百十五人のうち、大阪、京都で働いていたものが、百十七人と54%に達し、地元は避けたいが、余り離れるのも嫌だという娼妓の心理が浮き彫りになります。

因みに東京の娼妓総数二千二十六人の内、滋賀県出身者はわずか4人、東京の遊廓で滋賀県の女にあたる確率は0.2%という事になります。

さて、日日新聞に戻ると、二月十二日「県売春防止対策本部の方針きまる、旅館兼業など禁止、従業婦は引続き雇えぬ」が一面の最初の記事を大きく飾りました。その骨子は

1 売春の恐れのない業種への転業を指導する。
2 二つ以上の風俗営業を営んだり、または風俗営業と他の特定業種と兼業することは認めない。
3 お茶屋は料理店としか認めない
4 各業種への転業は関係法令基準に基いて許可する。
5 従業婦は引続き雇用はしていけない

との方針をきまりました。  詳細は次回に・・・





# by gionchoubu | 2017-01-18 13:20 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十二

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柴屋町女紅場“梅の屋”(大正の地図では梅の家)、その後、丸信になり、現在マンション。
隣がお食事処の大和屋さん。

それでは柴山町の“英吉ねえさん”の回顧談の後編をお贈りします。

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昔の芸妓は芸も仕込みましたがお酒も鍛えたもんどす。“酒に負けては芸妓が勤まらん”いって、そうどすな、私なんか七つの時から一日一合か二号飲んで練習しました。

おかげで一升酒になったんどすが、金屋の庭は広かったので、飲みすぎたら朝早う起きて、タビはだしで庭を走ると気持がなおる。

そんなことでなんぼでも強うなってしもた。

大阪のある会社の方が、来やはると豆腐がすきで、坂本の三橋にモミジ見物は豆腐と酒だけ持って行ったことがおす。

昔のお酒は悪かったなァ。軍人さんに呼ばれて行くと白鶴がよく飲めた。この八十八の年になっても毎日一合か二合飲んどります。

酒を飲むとコタツもいらんし、気も晴れる。酒がないとさみしゅうて、ジッと引き込んでしまいますのや。

四、五年まで一升飲んでも平気で、八十年の間に酔いつぶれたことはおへなんだ。

私の芸のことをいうとおかしおすが、金屋は芸がやかましゅうてな、私の専門は三味線どす。

長唄、常磐津、清元もやり、少々の踊りもできたが、三味線がやっぱりええ。若いころ検番にお師匠がきやはりまっさかい何でもケイコせんなりません。

私の仕込んだ妓もぎょうさんいやはりましたが今出ている人はだれもいまへん。こんなこというの、なんどすが今の芸妓はなってないし、また気の毒どすな。

お客さんにどこへ連れて行ってもらうちゅうこともおへんし、芸妓を温泉へでも連れて行こうかという気のきいたお客もおへんやろ。

あのころはたいがい自前で奉公人の芸妓は少なかった。借金を負うた奉公人でも、よいダンナをひっつかまえるとじき自前になる。

芸の仕込みがきびしかったし十二くらいから仕込んだもんで、年寄った奉公人の妓はどこも置かなんだ。

そのころのお花が一本十四銭。それは私がでてやから明治二十五、六年ごろどす。一昼夜四十四本から四十六本で千本売る妓は、よう動く妓どした。

揚屋がなんでも花一本について二銭くらいの時代どす。それで芸妓の手取りが八割くらいで、残りを検番と置屋が取ったんどっしゃろ。お米が一カマス二斗五升が高うて二円五十銭くらいどした。

芸妓の世帯持ちは気が陰気になっていかんいわれて、私はお針も習わなんだので、今の年で難儀しています。

三十一で世帯をもったんやが割木がなんぼや初めて知りました。のんびりとしとりましたんや。“芸妓は金のこと考えんでもええ”いうて教えられましたんや。

借金があるほどかいしょもんといわれました。お客に“なんぼなんぼ借金があるのどす”というと、だまって払ってくれやはりました。

千円のお金を持てば小金持ちやと評判になったくらいで、お金をためた妓もいやはりましたが、たいがい旦那に家の一つくらいもろうたらええ方で、芸はできてもお金はないというのが普通どしたやろ。

柴屋町の芸妓は半センコで、九つくらいから十二くらいまでで一本になったが旦那をとらせたのは、まァ十五どすな。

芸妓の一番油の乗りきるのは二十一、二から二十五、六、おそくて七まで。“顔がよいと芸がにぶる”とはよういうたもんで、顔がようていばった妓には芸で恥をかかしたもんどす。

芸妓の世界は意地悪いもんどすえ。

それで年上の芸あるものは大事にしてもらうた。年増芸妓の苦労は舞妓をオンバ(お客に世話すること)することで、よいお客だとオンバもよい。本人の舞妓はいやがるが、物を買ってやってエサでつる。

相方が“ねえさんにやってくれ”ということで、年増芸妓にもうるおうてくるのどす。

ようなびく妓もあったがいやがっていうこときかんのもいた。芸一本の芸妓だとなんといっても客をとらんのや。

大阪では一ぺんに客を三人とるようでないと一人前でないというてはるが、大津ではそれほどキツイこともいわなんだ。

一現はしなんだが、知った人がよい客をつれてくると、どの妓をひっかれようかと十人くらい芸妓をみせて相方をつけるのどす。

芸妓の軟派は客をとるが、硬派はとらん、頼み頼んで、くどき落すのどすが、よい客やとおしいというのが郭商売の苦労どころどす。

マクラ金は花代十四銀のころ、よい芸妓で二十円、悪い妓は三円から五円、飛び切って五十円、そんな妓もいた。

そんなことでよい客だと二、三年続かすのどすが、マクラ金は一割が置屋へお礼して、そのあとは腕次第どした。

お客にお金で無心をいわんで、着物を買うてもらう妓があるが、これが賢いのどすえ。

着物ならお茶屋への礼はいらんし、自分が自前になった時に楽になるという考えの妓もおりました。

柴屋町の昔の舞妓の水揚げは安おした。五百円くらいどしたやろ。

今は大阪あたりでは五十万円、百万円の声もききますが、私らの古いもんの考えではお客の筋が問題で、なんぼお金を積んでも、よいかげんな客にはきかんのがあたりまえ。

舞妓というても旦那をつけるのは嫁入りさすようなもんどすさかいなァ。

まァ、これは昔の芸やお茶屋の裏話どすが、やっぱり芸妓の本職は芸どす。今の柴屋町では芸を見分ける人もおへんやろ。

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戦前の話しとして、と断りを入れますが、娼妓は客をとるが、芸妓はとらない、というのは一種のファンタジーで、松川二郎の『全国花街めぐり』でも、芸妓の枕金を特別祝儀という表現で全国の花街の芸妓に対する特別祝儀を載せています。

同書の京都の項の総記で、女郎屋に縛られる“居稼ぎ”の娼妓は別として、京、大阪などの「芸妓・娼妓両本位」の遊郭で、所謂比較的自由な“送りこみ”制度のもと芸妓をしていた大阪の娼妓が

「芸妓さんほど着物にお金が出なくて、収入は変りませんもの。それに芸妓だって娼妓だって、することは結局同じことなんですもの。」

ただし、娼妓は取るお客を選べず、芸妓の客は基本、ある程度以上のステータスがあり、芸妓側の自由意志の部分も有った・・・という違いがあるでしょうが・・・

この新聞記事の存在を文庫で教えてくれた『艶本紀行 東海道五十三次』の林美一さんによると、柴山町の老名妓英吉さんは、この思い出話が新聞に載った十日後八十八で亡くなられたそうです。

今一度、最初に戻ります。

「私は京都の生れで、六つでここへ子供に来たんのんですさかい柴屋町で八十二、三年生きていることになりますやろ。

耳が遠くなって、目もうすうなり、もうあきまへん。

知ったお方はみな死んでしまはって、独り残されました。」



# by gionchoubu | 2017-01-16 14:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(1)

大津、柴屋町ぞめき 十一


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小島屋→(料理旅館)大津会館→ビジネスホテル大津会館→現在は営業しておりません。



昭和三十三年二月十六日と十七日の滋賀日日新聞のシリーズ『消えゆく赤線地帯』の七、八に載った「県庁芸妓、おせん “玉のコシ”はなかった」は明治、大正、昭和の八十年に渡って、柴山町の“英吉ねえさん”として芸妓生活をここで送った、当時八十八歳の若山タミさんの四方山話がとても味わい深いので二回に渡って紹介させて頂きます。

------------------------------------------------------------------------------

私は京都の生れで、六つでここへ子供に来たんのんですさかい柴屋町で八十二、三年生きていることになりますやろ。

耳が遠くなって、目もうすうなり、もうあきまへん。

知ったお方はみな死んでしまはって、独り残されました。

柴屋町もすっかり変ってしもうた。昔の面影がなくなったは惜しいこっちゃ。

上柴は女ばかりで、物いうのに男気がなかったのでこんなことになったんや。

昔は車ひきが“ここが大津の柴屋町どす”といわはったくらい盛んやった。小島屋はんの先代(谷口弁二郎氏)でも生きてはったら、こんなことにならしませんでしたやろ。

私は六つからケイコして十八の年に金屋からツマをとった(芸妓になる)が、はじめて出たのは十四ぐらいどした。

私はブッチョウヅラやから“あの人芸妓にでやはるのか、こわい人やなァ”といわれました。

やめたのは六十四、五だったかいな。“もっと出とい”といわはるがイナカでは年よりの芸妓買わはらしまへん。

しかしなじみはよいもので七十くらいまで私のようなおばあさんを呼んでくれはりました。

そうどすな、昔の柴屋町は上(柴屋)も下(柴屋)も一緒どしたが、ぎょうさん娼妓ができたので上と下に別れたもんどす。

角に門がありましてな。ちょうど島原の角屋の出口の柳のような大きい柳があったことをおぼえていますが、いつのまにか門も柳もないようになりました。

そのころお茶屋では金屋、橘屋、今のうどん屋はんの五、六軒が富永屋のあとで、小稲半兵衛が心中しはったとこや。

半兵衛は呉服屋の手代やといわれてますが、本当は富永屋のオトコシどした。

三階で死にはったが、その部屋へ物をとりに行くと白ヘビがでるいうて、やかましいことどした。小稲はオヤマどす。

小島屋は今の大津会館のとこでちっちゃい茶屋でした。

金屋が一番大きうて、おじいさんが遊芸がすきで、今の丸信さんのとこに梅の屋という女紅場がおした。

金勝、金茂?、金たね、品良というよい舞妓がいやはって、仲居のひいきどした。

そのころ、金屋のおじいさんが、舞妓を十人そろえて出さはりましたし、柴屋町では若手芸妓が九十七人いやはりました。

金繁のおやまさんは不細工やったが、しっかりした人で度胸があるえらいもんどした。

その金繁はんに吉勇というよい芸妓がいやはったし、小島屋のおせんさんもよい芸妓で、ええ客ばっかりひかはった。

四ノ宮の郭にもよい妓がいましたなァ。県庁ができて、柴屋町に移ってきやはりましたが、あのころは大したもんどした。

大津によい芸妓がいるというので、よい客が多かった。

江頭の井狩さん、八幡の西川さん、彦根の前川さん、みんな今の人のお父さんどすが、よう遊ばはりました。

下郷さんがきやはったらお殿様のように金ぶちまでかざったりしました。

県庁の人もよう遊ばはりました。知事さんの川島さん(純幹)のころも遊ばはったが、中井さんの遊び方はちょっとちがう。

陸軍の九連隊でも偉い人がいやはった。内藤連隊長のころや。大きい宴会で、みんな若い芸妓にお酒を飲してよろこんでいやはったがみんなヘベレケになったもんや。

そのころ長浜から船で夜の一時ころ浜大津の大湖社へ着かはったが、今のように芸妓が駅に迎えにゆくようなことはせず、お茶屋で待ったものどす。

小島屋のおせんさんは中井知事さんのヒイキで県庁の芸妓ちいうたぐらい。下郷さんの相手もこの妓でした。

しかし、大津では玉のコシに乗ったいう芸妓はいまへんな。

金繁の吉勇さんはとても賢い妓で、芸妓はだれでもお金にほれるもんやが、あの妓は芸だけで有名な、それはよい芸妓どした。

お客さんが吉勇はんを一ぺん見たら、必ずまた訪ね“吉勇をなんとかならんか”とだれでもがあたりをつけはるが、これにはみんなが困ったもんです。

紅葉館に踊りの名人の猿之助はんが来て、踊らはったら、その地方をしらん顔してやってのけたくらいの腕で、そんな芸妓はちょっとおへん。

それだけ芸一本で、ようできた妓でしたが、ダンナと一人の子供に死なれ、またよそに嫁入れして、ママ子で苦労してやはる。

オヤマは別ピンでないといかんが、芸妓は顔がようても芸ができて、かしこないとあかん。

とにかく昔の柴屋町は楽しおした。みんなよう飲んで、お客ものんびりしてよう遊ばはりましたからなァ。

でも今の柴屋町はもうつぶれてますさかいあきません。

・・・次回に続きます・・・






# by gionchoubu | 2017-01-12 11:49 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(1)

大津、柴屋町ぞめき 十

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大津下芝屋芸妓、近江常内、梅之助

『全国遊廓案内』昭和五年刊、によると、上柴地(屋)遊廓も、下柴地(屋)遊廓も店は陰店を張っていて、娼妓は送り込み、廻しは関西式でとらず、遊興は時間又は仕切り花制、一泊は四、五円検討で、この料金に台の物(料理)は含まれていません。

この時期、一泊が京都府の橋本や宮津や龍宮で六、七円なので、滋賀県は柴屋町にかぎらず、彦根でも、八日市でも草津でも四、五円なので、他所に較べ、お値打ちと言えます。大阪の新町は一泊で十円はかかるので、滋賀の倍以上かかったことになります。

さらに、滋賀県は柴屋町以外も、『全国遊廓案内』に記述がある、彦根、八幡、八日市、草津の遊廓とも遊客が娼妓を写真でなく、直接女の顔を屋内で確認できる陰店式を採用していることから判断すると、県として、娼妓の人権を配慮した写真式への指導が緩かったか、もしくは、無かったような気がします。

『公娼と私娼』によれば、昭和四年時、上馬場に営業者11軒、下馬場に営業者82軒、娼妓数129人、公娼と私娼は内務省警保局で編まれたものなので、公には上馬場、下馬場を用いていました。ちなみに昭和四年刊『日本遊里史』は大津柴屋町としています。

昭和四年の『技芸倶楽部』に、下馬場町遊廓が大黒座で第二回温習会として、三月十八日から二十六日まで、「近江八景、大津絵踊」が催される予定である、という記事が載っています。下馬場は元々娼妓中心の遊廓でしたが、温習会を開くほど芸妓の質が上がっていた裏付けと考えて良いでしょう。

師匠は長唄が福富しづ、常磐津が大八木すが、舞踊が北川いし、鳴物が田中徳次郎、出し物は素囃子「舌出三番叟」舞「薮入娘」「桜狩」長唄「多摩川」舞「助六」「将門」「七福神」最後は「近江八景大津絵踊」との事でした。

昭和七年の『技芸倶楽部』に下柴の豆ちよ、豆一、金弥の三芸妓が京都放送局より、「大津絵」「近江小唄」「新大津節」を放送して、好評だったようです。
谷歌水氏作詞の「近江小唄」がこれです。

一、 春は坂本長等のさくら、花をたづねてどこへ行こ、唄の三井寺日暮れに答へりや、鐘に湖国の味を知る

二、 そゞろ歩きは京町通り、いつか中町濱通り、夕べ別れた紺屋ヶ関の、岸につないだ恋の船

三、 八景めぐろか島めぐろか、島は多景島竹生島、近江舞子の小松の濱には、船と別れておよぎたい。

四、 誰に逢ふとてかへりを急ぐ、心矢橋の船頭さん、磯のかもめに言づけしても、それは無駄だよ堅田より

五、 秋は石山月見にゆこか、膳所の城あと粟津原、昔なつかしい唐橋越えりゃ、仇な絃歌が耳につく

六、 冬の湖水はスキーの世界、想い出すさへ腕がなる、鳴るは汽笛か大津の駅は、山へ山への急テンポ

ほぼ同時期に出来た祗園小唄など、四季を小唄に織り込むと、芸妓が座敷で季節を問わず踊れるという大きな利点があります。




# by gionchoubu | 2017-01-10 14:24 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)