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阿古屋新地と辰巳新地

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京都市に存在した数ある遊所の中で一番混沌を究めているのが清水寺の麓にあった遊所で、『京都府下遊廓由緒』では清水(阿古屋新地)と辰巳新地の二箇所としての記述を見ることができるものの、情報は究めて少ないようです。

ここでは、別の資料も鑑みつつ、私の力では不完全は物しか出来ないのは百も承知の上でその歴史を追って見ようと思います。

京都の遊所は八坂神社の門前である祗園、北野天満宮の門前である上七軒が今も花街として栄えておりますが、お寺の門前でも壬生寺門前の遊廓そして清水寺の門前に栄えた遊所がありました。

寺の遊廓が早々と姿を消し、神社の遊所が花街に昇華したのは、神社は一般的に遊女に寛容だという見方は出来ます。私は与しないものの、遊女の起源巫女説なるものも確かにあります。

祭りに遊女、芸妓が参加する事が多いいのが関係しているのか、仏教が遊女に不寛容なのか分かりませんけど、東京でも湯島天神、芝神明、浅草と神社に縁のある花街は多いいのは偶然とは思えません。

京の島原、江戸の吉原、大阪の新町の日本三大遊廓に、非官許ながら伊勢神宮の精進参りの遊廓として繁栄した伊勢古市は、非官許ながら先ほどの三箇所を加えて日本四大遊廓と言われることがあるぐらい多くの参詣客を飲み込みました。

さて、平安朝以来参詣者が多かった清水寺でしたが、応仁の乱以後清水寺の下一体は治安は悪化、盗賊が住み参詣者から強盗を働くといった具合になり、とうとう元和五年板倉所司代は補史を出して盗賊を召し取り、清水二、三、四丁目に茶屋を認めました。『京都遊廓由緒』によると其の後、茶屋女が紛らわしい商売したと書いています―はっきり言うと茶屋女が遊女化したということです

当局としては盗賊の巣になるぐらいなら、非合法の遊所の方がまし、といったところでしょうか、こういった様に強盗が出没する所が遊里化した所に、大阪の南坂町(道頓堀、今の相生橋を下がった場所で、通称髭剃)がありました。

髭剃の由来は、『日本遊里史』によると、無頼漢などが通行人をここに誘拐し金をだすか、出さねば髭をそろうか、と脅迫したことからこう呼ばれたとの事です。

いずれにせよ、強盗がでるからと、これを捕らえ、茶屋を発展させる事で治安を維持するというのが官の頭に描かれてあったのか、それとも時代の趨勢で自然と遊里化したのか解き明かしてくれる書物はありません。

もし、当局の方に、遊女をもって毒を制すという目論みがあったなら、遊里成立の特異な類型と見ていいかもしれません。


# by gionchoubu | 2016-08-26 10:30 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その六

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接客婦と服毒心中、橋本新地(八幡)で登楼の客

二十日午前七時半ごろ府下綴喜郡八幡町橋本新地仲之町八、貸席本H楼・・経営者T氏(三九)・・方で前夜から登楼中の大阪市旭区北清水町、M運送店方自動車運転手N・寛治さん(二十三)が接客業“明美”ことKさん(二十二)―熊本県珠広郡・・勝町生まれ・・と服毒心中しているので、橋本巡査部長派出所員が検視の結果、死後約三時間を経過、劇薬の粉剤をウイスキーと一緒に飲み干したものと見られ、府警鑑識課へ鑑定を依頼した。

同書によると、明美さんは昨年九月から同楼に住込み、あっさりした気のよい女だったが、さる二月郷里の熊本へ帰ると荷造りまでしたのち思い直しとどまっていたもので、そのころからNさんと親しくなり、考えることが多かったという。Nさんは九回ほど明美さんと遊び十八日夜も登楼、十九日夜九時半ごろカーキ色兵隊服、紺ジャンパー、紺ズボン、ゲタばき姿で再び訪れ、二十日午前四時すぎまで明美さんと話していたと同僚は語っており、

男は「明美も死にたいといったから」女は「山のフモトで親を訪ねて泣く小鳩の明美は独ぼっちでさびしい。ダレも救ってくれる人のない不幸な女だ。寛ちゃんのバカ」としたためてあることから、生き別れになって大阪にいるという親を探しあぐねる明美さんと添いとげられないのを悲観して心中を図ったのではないかと同署はみている。

こちらの記事は昭和三十年、四月二十日の京都新聞に記事に載っていたものです。

昭和五年ではありますが『公娼と私娼』によると、京都府の娼妓は熊本県が多かったことになります。又、同書によれば同年の京都府の娼妓4461人の内、20歳未満が11%、20〜25歳の62%、25〜30が24%、30〜35が3%、35才以上は0.3%僅か十二人でした。

ですから明美は熊本出身の二十二歳、ごくごく平均の橋本での接客婦という事になります。

新聞内で橋本新地と記され、橋本遊廓と称されていないのは以前書いたように、戦後は遊廓が制度上存在していないからです。ただし売春自体は違法でない為、旧遊廓地はこの様に〜新地などと呼ばれました(いわゆる赤線です)。明美が接客業となっているのも、公娼制度自体が廃止され、娼妓という称号も無くなっていたからです。

橋本は京阪沿線で大阪との境にあります。京都側には京阪沿線に巨大な七条新地があり、さらに沿線上に中書島もあります。京都の誘客はほぼこの二箇所に吸収され、わざわざ橋本まで足を伸ばす者は少なかったと思われます。

橋本は京阪沿線の大阪側から通っていたと誘客が多かったと想像され、Nもその一人だったのでしょう。

現在、遊廓や赤線の雰囲気とは小説やルポ形式や映画で感じ取るしかありません。

この新聞記事を読むと、遊廓や赤線で遊客が、苦界に身を沈めざるを得なかった女と恋愛感情を持つのは、さして珍しい事でも無かったようです。




# by gionchoubu | 2016-08-23 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 現在の島原


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Hyggeさん、タイル造りは貸座敷独特でお茶屋では用いません。コーヒー、紅茶、スイーツ、そして時間が止まった様な空間も最高です。

現在の島原を歩いてみます。まず大門の前にさらば垣と防火の桶が再現されています。江戸の吉原は二十一回全焼しましたが、その内十三回が遊女の手によるものとされています。

それに引き換え島原は、天明の大火(1788)も免れ、安政の大火(1854)も被害はありませんでした。ところが同年、八月十五日の島原火元の火事で、廓内、角屋の建つ揚屋町と下之町の一部を残し焼けました。

島原に火事の少なかった理由の大きな理由の一つに、島原では遊女の廻しという、遊女が一晩に掛け持ちで客をとらされるという過酷な制度なかった事を挙げられると思います。

さて、大門を潜るとお茶屋鶴種が有るのは嬉しい限りです。映画「廓育ち」の冒頭シーンで非常に印象的に映し出されています。映画では玄関の乳白色の丸い電球に鶴種の文字がはっきりと確認できます。
              
中之町を北に上がれば輪違屋さんがありその北に輪違屋の駐車場があります。ここはもとは熊木というお茶屋さんでした。デイケアセンターはもと島原遊廓事務所と歌舞練場、道を挟んだ向かいは産婦人科でした。

道筋に戻ると、お茶屋松葉さんの建物を改造した“ギャラリーたんとん”があります。

中堂寺町に入ると西がすぐインテリア町家カフェのHyggeさんです。ここも、もと貸座敷でした。二階に小部屋があり、かつて夫々に電気メーターがついていたそうです。下宿として使われていた時代があったのでしょう。

その先、青木楼の南の筋から中堂寺を抜けた北にあり、今シェアハウスに生まれ変わろうとしているお宅も元貸座敷でした。下之町の料理屋、鳥清も以前は貸座敷、今はシェアハウスです。

お茶屋、松栄は旅館松栄から誠の湯を併設して今に至っています。松栄の敷地は旧松本楼、さらに松本楼の一部から島原トルコ温泉の場所は現在松栄の駐車場です。お茶屋本滝野は滝野旅館になり、現在は高校の寮となっています。

角屋、輪違家、きんせ以外、お茶屋の姿をある程度以上留めているのは、鶴種、芳春、松葉家、青木楼、山本楼、鶴雪、豊田屋、そして名前は分かりませんが貸座敷跡のHygge、シェアハウスの鳥清跡そして今シェアハウスに生まれ変わろうとしている中堂寺町の空き家だと思います。

以上はあくまで私の見立てですが、大方あっていると思います。


# by gionchoubu | 2016-08-20 11:58 | 島原遊郭 | Comments(7)

島原遊郭ぞめき 島原太夫花の乱 

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吉野太夫花供養

1990(平成二)年は島原にとって色んな事件が起き続きました。まず老朽化が著しく、十数年から使われなくなった365坪余りの歌舞練場、但しこの土地建物は角屋の先代など三人の故人の名義で登録されており、修理しようにも、処分しようにも、法律上は、いったん三人の故人の相続人が財産を継承したあと処分を決めなければなりません。

しかし土地の評価額は二十数億、大変魅力のある土地であり、この年この土地に対すある問題が起きました。(興味のある方は『きょうとTOMORROW、1990、6,7月号、特集・島原太夫花の乱』京都市右京中央図書館に所蔵されています。)微妙な問題を含んでおりますのでここでは書きません。

こういう事情を見ていくと、私が、どうして島原花街の象徴として歌舞練場を残すことが出来なかったのか?という考えは一片の感傷に過ぎないと思えてきます。

もう一つは、当時京都の夜の観光の目玉として、京阪バスと京都市観光協会が主催していた定期観光バスの問題です。

観光バスの参加者は島原の角屋で、太夫による「太夫道中」「かしの式」「御点前」を披露していたのですが、会場の角屋が突然三月末でその使用を断り、歌舞練場も使えず、地元での開催が出来なくなったのです。

結局主催者は、島原から遠く離れた堀川今出川の西陣織会館に会場を移すことで凌ぎましたが、半年契約で、定期観光のコースとしての存続にも関わる大問題でした。

さらに、この定期バスの問題で、それまで島原お茶屋組合に京阪バスから年間二千万円払われていた礼金の内、ごく僅かしか太夫に渡っていないことが分かり、当然太夫側の怒りが爆発しました。

この問題は太夫側が組合と関係なく、直接バス会社と契約することになり、間に入った輪違屋のコストを引いた金額が太夫に入る事でなんとか収まりました。

この余波は、常照寺で例年行われる吉野太夫花供養にも及びました。例年通り太夫の出演を常照寺は島原のお茶屋に申し込んでいたものの、上記の事情で太夫側は反発、参加しない事を決めました。

驚いたのは事情を知らない常照寺、前売り券は完売、住職は輪違屋にかけつけ、差し当たり五十万円の礼金を置いて帰り、吉報を待ちました。花扇太夫は代理人の弁護士と、このお金の返却に訪れました。

結局、今回は太夫側が社会的な影響も鑑み、純粋に吉野太夫の墓参をするということで参加、ただし太夫側は礼金をいただかない、という形でなんとか実現したといいます。

参照:きょうとTOMORROW、1990、6,7月号、特集・島原太夫花の乱


# by gionchoubu | 2016-08-14 11:50 | 島原遊郭 | Comments(2)

島原遊郭ぞめき 太夫道中5

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昭和二十四年の道中、簡略化されているのは松本楼が戦前に焼失しましたので、
松本楼が面していた太夫町を省いたのでしょう。

前回は、昭和二十四年の太夫道中の文化・文政時代までの女人の時代風俗をみてきました。今回はその続きで、

明治初期時代 新造 勝代、太夫 駒太郎、太夫 富貴
ここまでが島原芸妓による太夫の扮装で、以下が現役太夫による道中になります。

現代 九重太夫 禿、青木喜久子 同、高井昌子 引舟、千代

   玉袖太夫 禿、高田正美 同、松本善江 引舟、清子

   美吉野太夫 禿、青木功子、同、西本幸子 引舟、満子

   光扇太夫 禿、細村君子、同、若村和子

   尾上太夫 禿、中田薫、太田洋子、北村智栄子、筆蔵京子、小川ハル子、長谷川トシ子、北村ナガ子
 引舟 婦美子

昭和二十四年の『島原太夫道中しるべ』に「八字を踏む由来」(内八文字)が載っています。他の資料等であまりこの件に触れていないようなので抜粋しておきます。

太夫が道中に「八字」をふむ由来について種々言い伝えられているが、何分大きな頭飾りや、大きな着物、打掛を着ているので早く歩けない、当時は御所の人、寺院の僧侶などが正装をして「静かに練りあるく」場面が往々にしてあったので、この風習が島原にも取入られたものと思われる。

この後京都新聞を追いかけると、戦後二回目は昭和二十八年に行なわれています。この翌日の京都新聞を見ますと「後三時から花曇りの空のもと可愛い、子供の如く花車を先頭に行列は組合事務所を出発寛永、正保時代から年代順に文化、文政、明治、現代と移り玉袖、九重、美吉野、火扇、春日、君太夫と禿引きわたり古典艶麗な風俗絵巻をくり展げて同四時過ぎ道中を終った。昔にかえって無料公開というのが効いたのか数万の人が押しかけ道中開始二時間前に大門を閉じるという盛況であった。」

そして、私が調べた限り、島原の廓内で最後となった道中が昭和三十年のもので、矢張り翌日の京都新聞に「三本歯でシャナリ二年ぶりの島原太夫道中」が載ります。

このときも島原の芸妓が寛永〜明治間の太夫風俗に身をかため練り歩いた後、現役太夫である初音、小車、九重、美吉野、玉袖がきらめくカンザシ、素足に黒塗りの三本足の高ゲタ姿で練り歩きました。


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『島原研究』「昭和の島原、太夫道中のひととき」に載る島原太夫道中巡行図



# by gionchoubu | 2016-08-11 11:08 | 島原遊郭 | Comments(0)