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第1回 福来寄席

f0347663_11331499.jpg

江戸前落語は廓噺の宝庫、品川心中、付き馬、五人廻し、二階ぞめき等々・・・志ん生さんがお手の物でした。

関西にも、三枚起請(これも私には志ん生さんのイメージが強いのですが、元は上方落語です)辻占茶屋、そして南地が舞台のたちぎれ線香などがあります。

この様に花街・遊郭と落語には切っても切れない縁があります。

さて、廓噺は掛けられないでしょうが、この3月4日(土)ギオン福住(知恩院前)で第一回福来寄席が催されます。

時間は開場12時30分、開演13時

出演は桂二乗、笑福亭生寿、桂弥太郎

前売1、800円、当日2、200円

前売は、とらいあんぐるあさひ編集室 075-744-1546(月〜金、10時〜17時まで)

私もこの催しに一枚も二枚もかんでおります。落後の後、希望者があれば、お茶でも飲みながら花街の情報交換でも出来たら、と思います。その際は正脇を呼びください。


# by gionchoubu | 2017-02-16 11:49 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 二十


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           静かな現在の柴屋町のメインストリート

柴屋町ぞめき十八で、柴屋町の料理屋、スナック、飲み屋、バー、クラブ等を昭和四十七年の住宅地図から書きだし、この狭い区域にこれだけ密集しているのは大変な過当競争だと書きました。

ところが、昭和五十九年の一月十三日の朝日新聞、滋賀版の「昔の繁栄失う柴屋町、店は増えても客は減る」を読むと、その後も飲食店は、減るどころか増え続け、昭和五十四年の調査で約六十軒だったのが、この年の調査でざっと百軒になったと出ています。

これは、お茶屋や料理店が古い建物を壊し、会館を建て、その中で小さいスナックが開店した事が大きな要因でした。

しかし、店の数に比例して客が増えているわけではなく、柴屋町の飲食店に酒を売っている酒屋の主人にきくと、販売量はここ数年横ばいか、落ち気味、五十五年ぐらいまでは結構忙しかったが、記事の出た時点では流行っているのは十軒に一軒ぐらいとの事でした。

この落ち込みに対する柴山町の経営者側の分析は三つで

一、 何よりも不景気が原因、お客の残業手当が減り、飲みに来れない。
二、 従業員の若い娘が集らない、少しいい子は京都に持っていかれる。
三、 京阪浜大津駅が出来た。同じホームで乗換えが出来るので、客が流れてこない。と言った理由です。

客側の意見は安易な経営姿勢に対しての厳しい意見が多く

一、 どの店もカラオケに客のおもりをさせている。
二、 値段は京都並、中身は場末
三、 二次会、三次会ともなれば趣向を変えたいのに、どこの店も同じ。

山を超え、京都へ行く客はいても、京都から来る客はまず居ない、という事になります。

この後、柴屋町も全国の小都市の花街、遊廓跡と同じ道を辿っています。ある程度の規模があり、県庁所在地という事もあり、斜陽のペースは多少遅くとも、確実に寂れていく運命を帯びていました。

売春防止法施行で遊郭がなくなる→旧免許地が芸妓町の花街に転進する→遊びのスタイルが変り、芸妓で遊ぶ新しい世代が生まれない→芸妓の世代交代も行われず、ますます寂れる→花街は解散する→芸妓がスナックやカラオケ喫茶を始める。

多くの花街跡で、今はこの芸妓がスナックやカラオケ喫茶を始めて20〜30年たった状態です。

これが私の見てきた、関西を中心にした、旧花街の辿ってきた道で、この元芸妓達もご高齢、全国の旧花街の番外編も終わりに近づいています。



# by gionchoubu | 2017-02-15 16:37 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十九

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     市民文化会館

現在の柴屋町で花街時代の華やかさを知る人は芸妓市子さんと、花柳のお師匠さんぐらいでしょうか。そして赤線時代を語ってくれるのも、お祖父さんが貸席、友春を営んでいたお孫さんぐらいになりました。

そのお孫さんによると、毎日のように診療所で性病の検査を受けていた“おねえちゃん”より、今の素人さんを含むプロの方のほうが余程恐いとのこと、いずれにせよ、私には縁遠い話なので落ち着いて耳を傾けることが出来ました。

三回に渡り、色々お話を伺いました。そこで得た情報の一つとして、柴屋町の本筋から商店街を渡り、お寺を抜けた最初の筋が出張新地と呼ばれる、柴屋の出張区域があった事が有ります。

今は面影も無く、住んで居る人でこの事実を知る人も希でしょう。柴山より一段落ちる一種の赤線と思われ、業者と警察の綱引きで出来たものだと思います。
他所でも例はあると思いますものの、珍しい事例と思います。

また、別所の市民文化会館あたりはかつてダンスホールで、この辺りはパンパンの領域、料理屋か旅館で商売をし、柴屋の合法の女達と、お客の取り合いで何度か大喧嘩があったという興味深い話から、柴山をどりの会館では、当時唯一大津でソフトクリームが食べられたという他愛の無い話まで、何回図書館に通っても得られない話ばかりです。

さて、平成三年三月二日の朝日新聞の滋賀版の朝刊に「柴屋町、遊び方も様変わり」の記事が載ります。

この年、まだ柴屋には七軒のお茶屋があり、芸子も十人いました。ただ、お茶屋に客が入る事は無く(以前書いた様に、京都以外、お茶屋の鑑札では料理や酒を提供できない)ホテルに呼ばれる接待が主だった様です。

共に、柴屋町で別のスナックを営む中島栄さんと山下みつ子さんによれば、お二人が昭和二十六年、芸子になって連日、三味線、小唄、長唄、常磐津の稽古に明け暮れた花街柴屋には二十七、八人の芸子がいました。

戦後の最盛期は昭和三十五年頃で、十五軒のお茶屋に四十人の芸子がいたことになります。これらのお茶屋の実質は芸妓置屋で、料理屋などに芸子を送り込んでいたのでしょう。

この記事の前年平成二年に、地区のシンボルであり、芸子たちの稽古場になっていた、明治の三階建ての建物が、老朽化がひどく取り壊されたとの事、以前書いた検番の事でしょう。

ただ中島さんが会長を務める芸妓の「みどり会」はこの時点では健在、大津絵踊りの保存、伝承に力を注いできた事が認められ、湖国のイメージアップに貢献したとして県から「ブルーレーク賞」を贈られています。これも平成二年でした。

現在柴屋芸妓は私の知る限り、濱三津の夕子さんただ一人が、旅館を中心に伝統を引き継いでおられます。京都の宮川町、東京の新橋、そして島原の輪違屋で十代目御当主の元でも芸を磨かれていますので、大津花街の灯を燈し続けて欲しいものです。








# by gionchoubu | 2017-02-13 14:00 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

島原ぞめき 島原と歌舞伎

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   雪の日の大門

京都の傾城町の太夫がこの浮世に与えた影響の大きいものに歌舞伎があります。

慶長八年(1603)出雲阿国が四条河原(実際は下之森らしい)で“かぶき踊り”を興行したのが歌舞伎の祖とされるのですが、これを受け継いだのが六条三筋(島原の前身)時代の太夫です。

『孝亮宿禰日次記』という本によれば、慶長十三年、四条河原町での興行に数万人の群集が集ったという記録があるそうです。

『京童』に、女歌舞伎の観客は「皆人六根をなやまし、心を六塵をとろかし、宝をなげうち、あるいは父母の養いをかえりみず」・・・あまりの熱狂的な人気が出たため、幕府は、これが体制の崩壊につながると直感して、女歌舞


伎に限らず、女浄瑠璃、女舞などの女性芸能を一切禁止したのです。

禁止されたのが寛永六年(1629)年といいますから、阿国歌舞伎から僅か二十六年目の事でした。

もし、太夫の芸が、民衆を狂わす程のものでなかったら、現在の歌舞伎は全く違う形式をとっていたはずです。

『色道大鏡』の名目抄、人倫門に、「出雲巫といふもの京に来り、僧衣を着て鉦をうち、念仏踊といふことをせしに、其後男の装束し、刀を横へ、歌舞を尽くせり。俗に是を哥舞伎といひしなり。是より事起りて、元和年中より、女哥舞伎はじまり、其後傾城の能をも催せり。先ず佐渡嶋が大哥舞伎、道喜、若女郎などいふ座あり。其中の傾城に、芸の堪能なる者を選み出して太夫と称せり」

ですから、遊女の最高峰が島原太夫は、浄瑠璃、常磐津、清元、文楽の太夫と語源は一緒で、遠い親戚筋のような関係です。

宮本政夫著『京都南座物語』によると、京都で歌舞伎禁止令が出たあと、寛文九(1669)年に再び興行権が認められた頃、「島原狂言」と呼ばれ狂言がありました。

これは遊里の客が、最先端のファッションで、橋がかりから登場すると、観客は「そりゃ買人の名人が出たわ出たわ」と大騒ぎ、道化方の揚屋の亭主が出ると「あの顔を見よ、おかしや」と笑い出す。やがて傾城にふんした女方が登場。買人とのやりとりの後、踊りをみせる。といったものだったとの事でした。

京都新聞社『名作散歩歌舞伎と京都』にいると、傾城壬生大念仏は備後の国主高遠家の世継ぎ民弥が島原の傾城にうつつを抜かして国を捨てて行方不明になったところから御家騒動が起こる・・・まさに傾城であります。又、傾城反魂香に六条三筋町、けいせい黄金?(こがねのしゃちほこ)、桜時廓美談、高雄宮本地開帳に島原の場面があるそうです。

もう一つ、以前にも書きましたが、助六は元和時代、京都の中京区にいた実在の侠客で、当時の容色才芸ともに秀でた総角(あげまき)という六条三筋時代の太夫と浮名を流し色んなエピソードを残しました。これを江戸に舞台を移し脚色されたのが歌舞伎の『助六由緒仇桜』なのです。総角は揚巻とも書くので、江戸っ子のしゃれっ気でおいなりさんと巻寿司の折り詰めを“助六”と呼んだというのが由来になりました。




# by gionchoubu | 2017-02-11 15:22 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原ぞめき 輪違屋お化け

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             2017年、2月3日、輪違屋お化け開宴前、禿は成人男性です

江戸期の花街事情に詳しい『嬉遊笑覧』や『近世風俗志(守貞謾稿)』にも節分お化けの記述は見あたりません。又オバケをタイトルにする本などを読んでも、鬼を驚かしてして福徳をもらうため、のような想定内の表現に満ちています。

実を言えば、明治三十八年、島原角屋の十二代中川徳右衛門が出した『娜婀娵女』(はなあやめ)に節分の夜の見出しが有り

“節分の夜、土龍(もぐら)のもたぬ呪なりとて、太夫より端女郎、禿、仲居に至るまで思い思いの異装をこらして五人、十人団体を組み手に手に鉦太鼓を打ち鳴らし「土龍殿は家にか、海鼠(なまこ)どののお見舞いじゃ」と囃したてヽ家々に入り、裏まで通り抜けて踊り狂ひ、賑かに其夜を徹したり。今の節分の夜に芸娼妓や少女が丸髷に結ひ代へ、年増や老婆が島田に結ひて壬生の地蔵に詣でづるは此習慣の遺りしものなり。”

私が花街おばけを島原発祥と信ずる所以となります。土竜は農作物の大敵、土竜の天敵とされる海鼠で土竜を退治する・・・と言った意味を持つのでしょう。

ただし『色道大鏡』や『一目千軒』にオバケの記述がないので、江戸期の後期にこの風習ができたものと思います。

因みに花街には農作に関するものとして、八朔があります。渡辺憲司監修『大人の教養を愉しむ 祗園のしきたり』によると。八月一日に祗園の舞妓・芸妓が黒の絽の五つ紋で正装して師匠や贔屓筋へのあいさつ回りとの説明の後、

「八月一日は稲の早稲が穂をつけ始める日で、古来、その初穂を一株刈り、神に供えて感謝と豊作を祈っていた。」ことが元にあり、矢張り我々が農耕民族である事を物語っています。八朔は当然島原の紋日で、『色道大鏡』にも『一目千軒』にも載ります。

花街の八朔行事も島原が発生の可能性が高いと思います。

もう一つ、正月明け、舞妓さんも芸妓さんも簪に稲穂を付けます。これは、“稔る程 頭を垂れる 稲穂かな”を引き合いに、謙虚な心で皆様に接する教え・・・の様な記述を見ますが、私はこの説明は後付で、単に、米の豊作を願うものと考えます。

島原発生の事は他にも沢山あります。漫才の一つのルーツであると考えともいい、俄狂言もその一つの可能性があります。『近世風俗志』は俄狂言は吉原にあり、と説明していますが、『嬉遊笑覧』を読むと、「俄ということは、京師祗園の祭礼、また島原・住吉の祭の練物などを学べるにや。その始は、享保十九年甲寅八月、九郎助稲荷一位と官位ありて、その祭礼より起れりと也」と有ります。

輪違屋お化けでの、演者の軽妙なやり取りを見ると、俄(にわか)のワは輪違屋の輪から来ているという説も、なんだか納得の夜でした。





# by gionchoubu | 2017-02-08 11:28 | 島原遊郭 | Comments(0)