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at 2017-04-19 15:45
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祇園ぞめき その十二

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    みやび会、お千度

明治以降、神仏分離で八坂神社となりましたが、それまでは親しみをもって“祇園さん”と呼ばれていました。創祀は諸説あります。『八坂社旧記集録』では斉明天皇二年(656)とあり、八坂神社側もこの年を創祀と見ています。

色々難しい事は別のブログや図書館に行って頂くことにして、ここでは遊郭・花街祇園との関連を少しばかり見ていきます。

元徳3(1333)年の『祇園社古図』をみると南大門にお寺の様に仁王様が二体置かれています。これは神家としてスサノオノミコト、クシイナダヒメ、ヤハシラノミコガミがご祭神ですが、仏家として牛頭天王を祭っていましたからに外なりません。

そして、その先の南に百太夫社が描かれています。以前日本の遊女の一つの原型である渡来系の傀儡女(クグツメ)が信仰していたのがまさにこの百太夫でした。

八坂さんとクグツメは結びつかないものの、新羅国牛頭山を含め、百太夫との関連には大きな謎を秘めている様な気がします。又、百太夫社の先を百度大路と言っていましたので、これも気にかかります。

八坂神社の中に美御前(ウツクシゴゼン)社があり、ここに参れば身も心も美しくしてくれるので、一般女子に混じって舞妓さんも訪れるなどと書かれている事がありますものの、私は舞妓さんが詣でるのを見た事はありません。

花街の人が参ったのはもっと北の円山弁天堂で、音曲の神である弁財天女が祀られており、とりわけ祇園花街の妓娼の信仰が厚く、堂の裏の白壁には「三味線が早く上手になりますように」などの祈願が書かれていた、との事です。

また、以前は三絃(三味線)の名手、塩崎くらの奉納した献灯が弁財天堂表門の前南側に、歌人香川景樹の銘があり、最後に「心をも空になしてやかえるらん天つ少女のあまの羽衣」の歌が読まれていたそうです。

八坂神社と祇園の芸舞妓を結ぶ行事に“みやび会”があります。七月初旬に催される井上流の行事で、三世の片山春子から始りました。当世の井上八千代さんと門下である祗園甲部の芸舞妓が拝殿に集い、舞の上達や健康を祈願します。

舞妓さんが毎年新調の浴衣で“お千度参り”として、本殿を一周するのが健気にも涼やかで、艶やかで、多くのカメラマンも、舞妓さんの前に構え、横を追い、結果本殿をぐるり、お千度をしています。

ほんらい“都をどり”は“みやび踊り”で始められる予定でした。ところが踊りの振り付けを担当した片山春子は、みやびの響きが相応しくないとお歴々の人たちを説き伏せ都をどりにした経緯があります。

そしてミヤビオドリを提唱した重鎮らの顔をつぶさないように、請うてみやびの名を自分の会に頂いたそうです。

祇園会の神輿洗いで催された祇園の妓女による祇園ねり物については弊ブログで詳しく書きました。

祇園会の後祭りでは、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の舞妓が輪番で、山車にのり町に繰り出した後、舞殿で舞を奉納します。祗園甲部は“雀踊り”を舞います。

その他にも二月の節分、最近では三月の花灯路にも上七軒を省いた四花街による舞の奉納があります。



# by gionchoubu | 2017-04-19 15:45 | 祇園 | Comments(0)

大阪四花街展

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                    南地五花街跡はカオスの様相


平成二十九年四月三日(月)〜二十八(金)
大阪府立中之島図書館本館三階展示場にて『大阪四花街展』上方文化としての大阪花街〜北新地・南地五花街・新町・堀江〜が催されています。

https://www.nakanoshima-library.jp/wp/wp-content/uploads/32a47402e1184c05e566d934d905103d.jpg

私も以前、「舞妓さんMY COM」というブログの「亡くなった大阪の遊所」という題で一年程、古今大阪の遊郭・花街を追い続けました。

突然原因不明のままブログ全体が消えてしまいましたものの、大阪の花街は繁く通った中之島図書館とともに格別の想い入れを持ち続けています。

さて会場に入ると、北陽(北新地)演舞場の見事な姿が写真で蘇っています。大林工務店が手がけたものです。京都では先斗町の歌舞練場が大林組の手によるものです。ちなみに祇園東による“祇園ねりもの”の二台の屋台は竹中組が制作しました。これはある所に保管されております。(場所は公表できかねる事情があります)

さて、今回の展示は、テーマにより、大阪天満宮、今宮戎神社、芸術名品コレクション、住吉大社、四花街連合大阪おどり、大阪の花街について、現在の大阪花街などで、週替り展示として、天神祭り、上方文化がありました。

大阪南地で大阪芸妓の代表の一人、富田屋八千代の直筆よる日本画に掛け軸も展示されています。明治36年刊『夜の大阪』もショーケースに有り、往年の八千代の姿を偲べます。

堀江、新町両花街のジオラマの展示も見ものです。新町のジオラマは以前、中央図書館の新町展でも見た事があります。

ビデオで、南地大和屋から東京の新橋に移った、日本舞踊の代表者の一人“武原はん”の踊りも見る事ができました。

今回の『大阪四花街展』の協力・資料提供を見ると、

阪口純久(南地大和家)
上方唄、長尾多栄(大和屋芸妓部福笑)
谷川恵(お茶屋、たに川の若旦那)
西川流、西川梅十三(北新地芸妓組合)
鶴太良(西天満のお茶屋)
四代目、旭堂南陵
長山公一(大阪春秋編集長)
野杁育郎(なにわ名物研究会会長)
水知悠之介(NPOなにわ堀江1500代表)
古川武志(大阪市史編集所大阪市史料調査会)

蒼々たるメンバーです。


# by gionchoubu | 2017-04-15 11:47 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

祇園ぞめき その十一

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            八坂神社の疫神社に祇園の幇間丈八と妻の玉垣がありました。


元文二年(1737)年、博望子の『洛陽勝覧』に此辺に太鼓持とて御客を慰る者あり
と書いてあり、以下に続きます。

名寄

桝之屋四郎八 人形出遣ひ思ひ付 人形さわき、上品のそこなり
すぬ庄平衛 上芸万能茶も少し立申候、御好みなれは 国太夫ふしも□よく候
臍本茶平 そろま物真似かほおかしき男にて候
昆布吉 三味線引、旦那をそゝり上る事也奇妙也。其後物まね、
         酒によへは役者物まねもうつり申候

役者物真似の分

大津屋平五郎、同平助、同鳥羽七、同右吉、同十九、同右七、同四ノ二、
       同藤七、同米七

『筆満可勢』(ふでまかせ)は天保六年正月から、翌七年十二月に及ぶ、江戸深川仲町から祇園の太鼓持ちに流れついた富本繁太夫の日記で、当時の祇園の様子が江戸人の目線で語られています。

江戸豊後節を看板に、東北や越後では江戸下がりの芸人として過ごしてきたものの、祇園では「芸者、甚吉弟子、富本繁太夫」として大鶴屋という幇間の見世より太鼓持ちとして座敷に出向きました。

本来、役者、忍者、武芸者のように、者の付く職業は基本男性職で、女性ならわざわざ前に女をつけ、女役者、女忍者のように云いました。ですから、京都では芸者といえば太鼓持ちのことで、江戸で言う芸者を芸妓と言いました。

筆満可勢ほんの一部だけの紹介です。

天保六年一月二十日

此日野様にて祇園井筒へ初て行。花車お里と、?お里と、?お咲、娘分藝子お政、手ごとの三味線殊の外能弾、義太夫藝子お市、譽三八、染八、おとせ抔同座にて、浄る里語りし殊の外評判よろし〜略

前々回紹介した、井筒の花車(お茶屋の女主人)お里さんが出てきました。


二月二十五日

当所に烏丸通といへる有り。これをカラスマといふ 〜略〜 烏丸にルの字入用なれともカラスマといふ。

江戸時代から、烏丸をカラスマと読ませるのは昔も今も、京都人以外は不思議に感じていたようです。

八月吉祥日朔日

此日風にて臥居たるに縄手富美代より返事ある。押て行し所、江戸登の客人なり。見し所高村甚左衛門殿なり。誠に久々、互ひに落涙し暫く挨拶なし。

今の富美代さんで江戸の旧知の人と久々の出会いがありました。

二十八日

此日岸本や亭主利八同道して白水といへる茶やへ五条松様と言客人にて行。芸子大勢、太鼓持三軒見せ不残出て居る。この節券(拳)流行也。此客人太鼓持隙成時分といへば、出て来りて金を五拾両七拾両位持来り、居続して三軒見せの者不残呼集る。座敷繁多の頃は不来。江戸にも余り多からぬ客人也。○○岸本や、五条松様。

忙しい時期には現れず、座敷の暇な時をねらって大散財、太鼓持ちを総揚げしてくれる客の鏡のようなお方です。

十二月十六日

此日三軒みせの太鼓持、祇園地頭所へ不残被呼る。皆々身持悪敷とて、掟書の帳面印行を被取る。

身持ちの良い太鼓持ちは居なかったようです。



# by gionchoubu | 2017-04-12 12:40 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十


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祇園甲部、豆純さん

東海の花街に思いを馳せる人なら“二つ一”の事をご存知だと思います。これは舞妓が常に二人一組でお座敷に入る事で、背格好や年も似通った二人の少女は名前も対を成し、ペアならではの踊りを披露したはずです。

名古屋では昭和には姿を消しましたが、浜松では昭和でもこの二つ一は残ったそうです。私は三重の花街跡でもこの話を聞いた事があり、愛知・三重あたりの独特の風習として花街史の記憶の忘却に消えようとしています。

実はこの二つ一(二つ市)は京都、祇園が発生だろうと私は考えています。『新撰京都叢書』の「四方のはな」慶応三年版、を見ると、三桝屋、小力、小かつ、同、力代、力尾、柳屋舞子、まさ鶴、政きく等に二ツ市と書かれています。他に一ツ市などという者もおり、これは良く分かりません。

同年版の他の花街、宮川町・二条新地・先斗町・七条新地・上七軒・北野下森・内野五番町そして嶋原には二つ一は載っておりません。

慶応二年版の「全盛糸の音色」の祇園には二つ一とは記されていないものの、宮菊、宮鶴・鶴松、鶴子・冨菊、冨葉・歌江、歌香など多くの舞子が線で結ばれており、二つ一と思われます。

ただし、明田鉄男著『日本花街史』の資料編には、この二つ一等は限られた紙面の為か省略されているので、興味のある方は臨川書店の版をごらん下さい。

その他、日本花街史で略されているものに、江戸歌=江戸唄が得意な妓、二調=二丁鼓その他、新内(節)、笛、大五(これは分かりません)、シノ(篠笛?)があります。

中島棕隠隠の『鴨東四時雑詞』47の漢詩を見ると

垂髫雛妓巳嬌粧
彗舌又能暗調腔
更結隣家第三妹
樽前軟舞自成双

この最後の詞、酒宴の席のしとやかな舞い、自づから双(一組)を成す・・・二つ一の事です。

さらに、

曲中(花街)、利を逐ふの急なる、雛妓僅かに八、九歳にして、既に歓宴に侍する者有り。皆能く歌舞す。其の価、尋常酒妓(芸子)に半ばす。

或ひは同輩を結び、並び前(すす)んで軟舞(しとやかな舞い)を進む。両人、一人に当たるを以ての故に、相喚んで、両箇一児(二つ一)と作す。

これを見ると、どうも祇園の営業政策の一つとして、二つ一が生み出されたようです。

鴨東四時雑詞が世に出たのは文化、文政の時、名古屋の花街はずっと後なので、東海の二つ一は祇園の風をとりいれたと見て間違いないでしょう。



# by gionchoubu | 2017-04-08 11:57 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その九

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    天保十一年(1840)春の祇園新地を描いた井上春曙斎の版画、せん九の場所も確認できます。

文化、文政〜天保の改革までの京都町触を読むと、再三に渡り、芸者、茶立女、下女さらに遊所以外の女子に至るまで、衣服、髪、櫛、簪を含め、遊女の様な華美に走るな、とお触れを出しています。

その名指しされた遊女の姿が、ちょうど同じ時代、五渡亭国貞の版画「四条河原白人之行会図」を見ると良く分かります。お揃いの黒の二枚歯の三人の白人(高級遊女)の姿は、皆前帯びを結び、嬌奢以外の何者でもない姿で自信に満ちている様子です。

祇園も結局この時代に遊郭として一つの絶頂期を迎えており、これは江戸、大阪、日本中の風潮でもあり、この繁栄が、堪忍袋の緒が切れてしまった幕府による、天保の遊所整理に繋がったのです。

この遊所整理で、京の廓は島原以外総て廃止となりました。祇園では本茶屋がだめでも、参拝客にお茶や団子を振舞う掛茶屋ならお咎め無しという事で、当時祇園第一のお茶屋、井筒(今の奥田連峯堂の場所)の女主人、お里は井筒を腰掛茶屋にして大評判をとりました。

又、知恩院の休憩所の泰平亭もお里さんが遠忌の際に寄進したものです。

井筒あたりは南座のすぐ近くなので芝居茶屋も多く、現在もその時の屋号で営業されているお店が二軒あります。

その後、嘉永四年に所司代脇坂淡路守により、遊女渡世は、制限付でお構い無しとなり幕末に続きます。

慶応三年『全盛糸の音色』を見ますと、当時の祇園新地名寄により当時の芸妓の見世は、井筒、嶋村屋、若松屋、京屋、鶴屋、万屋、玉屋、井上屋、三浦屋、いづゝ屋、近江屋、三桝屋、ときわ屋、鶴井筒、柳屋、東いつゝ、八尾屋の十七軒

遊女が所属したのは、井筒、嶋むら屋、若松屋、京屋、つる屋、よろつ屋、たま屋、井上屋、三うら屋、いづゝ屋、あふみ屋、三桝屋、とき輪屋、やなぎ屋、東いつゝ、鶴いつゝ、一力、八百屋、尾上屋となります。

芸妓、遊女の屋形で漢字、かなが混同しておりますが、同じ家です。また、遊女のいる家の中で井筒、たまや、いづゝ屋、あふみ屋、三桝屋、一力などは遊女の所属は三人以下で、遊女見世とはいえません。又、尾上屋は芸妓のいない遊女のみの見世ということになります。

そして、遊女と芸妓を兼ねた見世というのが、嶋村屋、若松屋、京屋、万屋、井上屋、三浦屋、ときわ屋、鶴井筒、柳屋、東いつゝ、八尾屋になります。

お茶屋の一力の遊女は、いち、りき、まん、の三人で屋号を背負っています。また幕末史をかざった君尾の名が史実通り嶋村屋にその名を載せています。






# by gionchoubu | 2017-04-05 12:19 | 祇園 | Comments(0)