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京の銭湯史 その六

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旧花街の象徴的な銭湯、島原の千鳥湯(現島原温泉)、中書島の新地湯、五条楽園の梅湯、橋本遊郭の橋本湯など、今も現役の銭湯があり、千鳥湯と橋本の湯は私も頂いた事があります。

渡会恵介著『京の花街』によると、先斗町には明治四十三年創設の鴨川湯がありました。場所は先斗町の中ほどの下樵町、組合直営なので芸舞妓は無料、さらに女性専用なので、歌麿の浮世絵の世界だった様です。

ただし、年功序列の大変厳しい世界なので、お姉さんの背中を流したり、年少の舞妓はさぞかし気苦労が多かった事でしょう。

この鴨川湯、時代とともに朝に限って男性入浴お構い無しになり、正午までは花街関係の男、以後は女性専用になりました。

これを客がききつけて、

「わしも入れてんか」

「何ンぼ、ごひいきでも、こればっかりは・・・」

の世界でしたが、昭和三十六年頃以降次第に町方にも開放され普通の銭湯になりました。今はありません。

祇園の銭湯事情は『ぎをん200号』の「祗園の湯屋」で秦恒平氏が買いておられたので、紹介させて頂きます。

まず、江戸期からの薬湯、松湯、大和湯は江戸期の地図で理解していたものの、唯一手掛かりの無かった亀湯が縄手にあった事が分かりました。さらに現在祇園東、歓亀神社の向かいに清水湯があり、ひろやかに天井も高く、明るい湯だったとの事です。

以前から紹介させていただいている松湯は小ぶりの湯屋で、花街のお風呂屋さんらしく、男湯は女湯の間口の半分、さらに脱衣場の壁は白地に赤い大きな字の披露目団扇が並んでいたとのこと。また松湯とくっつき気味に鷺湯という名の、これ又ちいさな湯があったと書かれています。

氏がまだ小さい頃なので、出勤前の舞子はんが大きな頭のままぷかぷか浮かんだりしているのを見たのはこの松湯か鷺湯だったとのことです。

そのほか四条通りの南一筋目に祇園湯があったとされておりますが、これら総ては廃業されています。その他、氏の家から一番近い「新シ湯」は正確には祇園のエリアから少し外れていますものの今も健在です。

さて、私も、のべ30年に渡り京都市の30軒以上の銭湯を利用している者として、すこしだけ京都の銭湯に対する自分の意見を述べさせていただきます。

まず、全体的にお湯の設定温度が高めだと思います。何個かある湯ぶねの一つはすこし温度を下げると、若い利用者も増えるのではないでしょうか? どの風呂屋もまず湯船に水を足して薄める事はできないのは、厳しい条件で営業されているので、燃費効果の為だと理解しております。

あと、どこの銭湯にも必ずといってある電気風呂を利用されている方は、昔はほんの少しおられましたが、現在まず男風呂で入っている人はいません。

ですから、構造上可能なら、電気風呂を廃し、湯温を3度程下げて頂きたいというのが御願いです。

今までの経験で、一番素敵だったのが、有名な船岡温泉、地下水の沸かし湯の成分が抜群に私の体質にあったのが西院の電気温泉、今の弥生湯です。



# by gionchoubu | 2017-05-20 11:24 | Comments(0)

スーパー銭湯のルーツ

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                   吉水温泉入口

明治初期の豪腕知事として辣腕を振るった槙村正直の懐刀として、数々の功績もあった明石博高は元医者でもあり、理化学にも詳しく、慢性病の治療に温泉療養が効果的であると、各地の温泉の成分を調べるという、大変先見の目をもった人でした。

そこで人工でその薬湯を作り、同志を誘い、永観堂の東山天華他僧侶を説き、現在の円山公園の北、左阿彌さんの近く、弁天堂の向かいに吉水温泉を作りました。

金閣寺を模した三層楼の塔がシンボルで、これは発起人の一人に金閣寺の住職がいた為らしく、市中からも良く見え、又高台の三層楼は静養室兼展望台として、京の町を一望することができました。竣工は明治六年八月で、翌九月一日に開業するや否や大変な人気になりました。

温泉の成分は有馬温泉を分析した成分を用い、蒸気罐を用いましたので、京の人は大変珍しがりました。

入り口は長楽寺の方にあり、正面は画像のように唐破風の造り、大額に英文で「人工温鉱泉、主として炭酸鉄を含む」と書かれていました。

さて、ここが順風漫歩に市民の憩いの場になったかと言うと、この人工温泉は意外な方向に向かって行きました。と言いますと、吉水温泉が出来ると、附近に沢山、男女密会の席貸ができ、女連れの放蕩児が出入りするようになり、入り口近くに瞰見楼もでき、吉水温泉も、緑江さんの言葉によると、悪い遊興場になってしまったのです。

明石等の理想は吹き飛び、同志の人々も手を引き、経営は次々と代わり、元々高めの入場料もさらに高くなり、遊楽場として有名になりました。

結局、明治三十九年四月十八日に起きた也阿彌ホテルの火災で吉水温泉も跡形も無く焼けてしまいました。

現在、スーパー銭湯や、人工温泉のラドン湯やトロン湯、温泉入浴剤まで、そのルーツは明石博高にあると私は思います。

さて、吉水温泉の建設中、明石は毎日のように視察にきており、ある日、誰かが初代(現在は二代目)の円山公園の枝垂桜を切ろうとしているのを見たのです。

明石が問いかけると、この男はその附近の雑木とともに枝垂桜も払い下げを受けたので、切って印材にするとのこと。

「印材にして売るといくら位のものや」

「マア五両位になるでしょう」

「それなら私に五両で売ってくれ」

契約は成立、男は伐採の手間が省けると喜びました。

円山公園の有名な枝垂桜を救った人としても、明石博高・・・決して忘れてはならない名前です。

参照:『円山公園上』『円山公園下』田中緑江

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                    吉水温泉遠景

# by gionchoubu | 2017-05-19 11:15 | Comments(0)

京の銭湯史 その五

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 一条風呂

今一度、中世から近世にかけての京都の町衆の風呂屋事情を見てみます。京都洛中洛外図の上杉本(1574以前)に描かれた風呂は一条風呂とよばれた公衆浴場で、今の中京区の革堂のすぐ近くにあったとされます。

時代で言えば、この頃、湯は貴重なものと想像され、客は柄杓を用いて体に湯を掛けていた有様が見てとれます。又白装束の髪洗女も中年以上の様で、単に入浴のお世話係りだったようです。

延宝九(1681)年完、藤本箕山がそれまでの三十三年をかけて完成させた『色道大鏡』に「風呂屋女篇」があり

「都はさすがなれば、寛文(1660年代)の初めに、風呂の四天王あり。所謂亀屋の佐津・丁字の吉・丁字の百合・清水の小七是なり。其なかに佐津こそ、殊にすぐれたれ。容貌きよらかにして、装ひ古今に独歩なり。鼬鼠論にくはしくこれをのす。風呂女は、板にたつとたゝざるとあり。是人によらず、家によりてかはれり。板にたつとていやしまれず、たゝざるとて貴しともせず、唯善悪不二と見るべし。但よきとてもあしきとても、自然盃の友なるは、京師のをいへり。」

板にたつ・・・髪洗女として風呂場に立つ、事と思われます。何れにせよ、風呂屋座敷でお酒の相手をしていた事が分かります。

所謂、が付けられる程、亀屋の佐津は人の口に上ったのでしょう。

貞享二(1685)年の『京羽二重』の宝永板(1704~1709)を見ると、当時の風呂屋は

松屋  室町五條ル町
扇   松原堀川東ヘ入町
清水  川原町二條上ル町
堺   松原通からす丸東へ入ル
+大夫  西洞院魚の棚下ル町
柳   西六條木つや橋下ル町
+丁字  高くら六角下ル町
和泉  小河三条上ル丁
大和  車屋町押小路下ル町
伊勢  四条大宮東ヘ入丁
+柳   堀川一條角
釜風呂 冨小路高辻上ル丁
同   同せいくハんし上ル町
同   いのくま綾小路下ル町
同   とミの小路竹や町下ル町
塩風呂 車屋町二條上ル町
同   間ノ町御池下ル町
同   東洞院松原上ル町
池田  川原町三条下ル二丁目
+ゑびす 東洞院六条魚棚下ル
櫻   ゑびす河柳のばゝ西ヘ入
塩風呂 祇園町

少し前に載せた、約三十年後、元文二年(1737)の『洛陽勝覧』と+が一致し、湯女を置き、風俗営業をしていたものと思います。又、丁字風呂は色道大鏡の丁字風呂と同所と思えます。

つまり、当時の京都の風呂は大方が大衆浴場で、ほんの一部が風俗営業をしていたものと思います。釜風呂は蒸し風呂、塩風呂は塩の効能を求めたもので、共に湯女とは無縁と思われます。

そしてソープランドの遠い祖先の風呂屋は、御免の傾城町、島原から苦情が殺到したのは間違無く、

宝永元(1740)年「京都御役所向大概覚書」に有るように、

一、風呂屋あかかき女之事、前々相定之通三人に過べかざる事。

一、 二階座敷を構候儀遊所に紛敷相聞へ候、二階座敷可為無用候、但勝手物置之儀不苦候事。附、向後作事いたし直し候節者絵図可指出事。

一、 火之元之儀、度々被仰出候間、風呂相仕廻候儀暮六つ切に可仕候事。

のお達しがありました。

そして、風呂屋の二階に座敷が有り、四人以上の湯女を置き、遊所として営業していた事が明白となっています。






# by gionchoubu | 2017-05-17 10:53 | Comments(0)

京都市のトルコ風呂

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日本の最初のトルコ風呂は昭和二十六年四月一日創業、東銀座の「東京温泉」で延べ千六百坪の建物には蒸し風呂付の大衆浴場のほか、三十の個室も設けられ、レストランや喫茶の設備もある豪華極めたレジャー施設として誕生しました。

トルコ風呂の名称は、この開店を報じた『内外タイムス』の記者がトルコ共和国の蒸し風呂を連想し、「日本初めてトルコ風呂が」との見出しをつけた事によるもので、以後エスニック情緒もあわせ、トルコ風呂の名が一人歩きを始めます。

尤も、この「東京温泉」は正統マッサージのみ、個室は銀行員の初任給が三千円の時代に、個室利用が千二百円と大変な高額ものの、前年勃発の朝鮮戦争の特需成金客で満員御礼の大繁盛。

ただマッサージ嬢は月、七、八万の高給取りで、客の口車には乗らず、健全経営でした。

この成功により、翌二十七年にはトルコ風呂第二号の福岡・中州に「博多温泉トルコ」、東京浅草に「新世界トルコ」、札幌・ススキノに「ススキノ・トルコ・センター」など相次いで開店しました。

そして、昭和三十五年に都内にあった六十七軒が三十六年に八十二軒、三十六年に百十二軒、三十八年に百四十八軒と急成長、明らかに昭和三十三年の売防法完全実施による赤線消滅の影響でした。

ただし、当初サービスの本流は、売春防止法に触れないぎりぎりのサービスがウリで、昭和三十五年当時、正統マッサージのみで来る客もまだまだ居りました。

しかしこの年、警視庁は都内九軒のトルコ風呂を売春容疑で摘発、以後業者と厚生省、警察庁とのいたちごっこが始ります。

昭和四十一年、ベトナム特需もあって、トルコ風呂は全国に七百六軒(都内二百八軒)ただし、調子に乗った業者が永田町の首相官邸裏にトルコ風呂の営業申請をだし、当時の佐藤栄作首相が激怒、トルコ風呂の新設が規制されました。

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ここまで見ると、昭和二十九年“第三回祇園おどり”(現在は祇園をどり)のパンフレットの広告に載った「トルコ娘の美松新温泉」の営業形態はソフトなお色気のみの正統マッサージだった事は、花街のパンフに載ったことでも明らかです。

名物トルコ風呂、アミューズメントセンター美松、二階、ダンス娘の・ダンス美松、一階、ビール娘の・ビーァ美松、地階、地下温泉街・家族風呂

場所は新京極で、最近までゲームセンタ、その前は美松劇場のあった所だったのでしょう。

風俗としてのトルコ風呂があったのは、私の知る限り、島原遊郭の今の松栄さんの駐車場あたり(旧松本楼)一軒で、昭和三十一年の住宅地図に島原温泉KKで載ります。当時を知る人によると、制服姿のマッサージ嬢がいました。

参照:『戦後性風俗大系 わが女神たち』広岡敬一著





# by gionchoubu | 2017-05-15 12:00 | Comments(0)

京の銭湯史 その四

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場所は分かりませんが(東京?)明治初年頃(もう少し後でないでしょうか?)とされる風呂屋の二階図です。湯上がりの男どもは、芸者然とした女性達に、体を拭いて貰う者、服を着せてもらう者、髪を整えてもらう者、湯上りの碁にお茶をもらう者。また、女性にふざけかかる者・・・天真爛漫です。


ペリーの遠征記の中で、ハイネのスケッチした下田の公衆浴場を見ると、男女は混浴で、広い洗い場の向うに唐破風の柘榴口があり、そこに湯舟があるようです。

京都の銭湯の歴史を続けると、明治以前は基本混浴が普通でした。

江戸期が終わっても暫らく京では“町触れ”は出されており、明治四年に京都府から出されたものを見てみると、

「湯屋の義は人の身体を清浄にし、養生の一端に可相成事に付、造作向務而美麗清潔を心がけ、銘々職業勉励可致候処、従来の風習として、何町四方には新職不相成など手狭の取りきめ有の由にて、自然株式同様の姿に相成、其造作を怠り、又それが為、湯の善悪にかかわらず、必ず湯銭を一定不可然事に候。

全体物価与申者、上品は価高く、下品は価卑(ひく)き者、自然の理に而、湯屋而己に限り、善悪共なんぞ一定の価たるべき理あらんや。

殊に当府下の湯屋は、旧来男女入込にて、その別(わかち)無之、甚もって風儀の乱れと相成旁々悪弊不少候間、この度一洗の為、会社取ほどき、左の通り、改正申し付け候条、心得違い可相守候。

一、従来の会社取ほどき、肝煎等相廃候□。

一、 是まで仕来の湯屋は、当年十二月かぎり、男女入湯場の区別判然相立可申し立可申候、若心に任さず難渋の次第も候はヽ、男女隔日に入場為致候?。或は時間を限候?、或者男女一方づつにいたし候?。いづれ  共いり混じり致さず候様可取斗候。万一右期限過ならざりに致し置候者は、職業差止め咎方も可申付事。

附り、男女入浴場区別の造作相整しだい、町役□勧業場へ可届出事。

一、 以来新職相始度もの者其、町分え申出、示談の上町役連印願出候はヽ、詮議の何軒にても可聞届□。

   附り、新職の者、男女入浴場区別の義者勿論の事。

一、 造作に美をつくせば財本を費やす事多く、造作粗末なれば財本を費やすこと少なし、湯銭の高下も是に応ず可く。其職業の盛衰湯浴(いりて)、人の多少も可随の理に付、巳来銭湯取極は銘々勝手次第心に任す  可く候事

一、 私に仲間を結び、取締等の名目を附、人の生活を束縛する所業、堅く禁止の事。

右の通り市群中え洩れ無く洩相達るもの也。

辛末八月                           京都府」

町触れは、入浴は体を綺麗にする事が目的で、従来の男女混浴による風儀の乱れを憂い、この悪習を止める様、通達の運びになりました。
          



# by gionchoubu | 2017-05-13 12:37 | Comments(0)